労働農民党(戦前の日本)

📌 主なポイント
- ✓1926年3月5日に結成され、1928年4月10日に治安警察法に基づき結社禁止となった。
- ✓1928年の第16回衆議院議員総選挙で、無産政党として最多の28万票を獲得した。
- ✓水谷長三郎と山本宣治が当選し、日本初の社会主義政党出身の衆議院議員となった。
労働農民党(ろうどうのうみんとう)は、1926年(大正15年)から1928年(昭和3年)にかけて日本で活動した合法左派の無産政党である。「労農党」と略称されることが多い。
結成と分裂
1926年3月5日に結成された。前年12月に結成された農民労働党が、共産主義との関連を疑われ即日結社禁止処分を受けた経緯から、当初は左派を排除した形で発足した。初代中央執行委員長には日本農民組合委員長の杉山元治郎が就任した。
しかし、地方支部が組織される過程で左派勢力が流入し、親共産主義を掲げる左派と、反共主義を主張する右派幹部との間で激しい対立が生じた。同年12月、右派は脱党して社会民衆党を結成し、中間派も日本労農党を結成した。この分裂を経て、労働農民党は委員長に大山郁夫を迎え、左派主導の政党として再編された。

第1回普通選挙と弾圧
1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙は、日本で初めて普通選挙法に基づいて行われた選挙であった。労働農民党は権力による厳しい干渉を受けながらも、無産政党として最多の約28万票を獲得した。京都府からは水谷長三郎と山本宣治の2名が当選し、日本初の社会主義政党出身の代議士となった。
しかし、山本宣治は帝国議会において治安維持法改正案をめぐり、特別高等警察による拷問行為を暴露するなど果敢な活動を展開した結果、右翼団体から激しい反発を受け、最終的に暗殺された。
結社禁止とその後
1928年4月、日本共産党員が大量検挙された三・一五事件が発生した。政府は、共産党活動家が労働農民党の候補者として選挙に出馬していたことを理由に、治安警察法第8条を適用して労働農民党を即日結社禁止処分とした。
党の解散後、大山郁夫らは「新党組織準備会」を結成し再建を試みたが、その後は日本無産党や社会大衆党などへ勢力が分散した。戦後、これらの流れを汲む多くの活動家が日本社会党の結成に参加し、社会党左派を形成する一翼を担った。
よくある質問
労働農民党はなぜ結社禁止になったのですか?
労働農民党の主要な指導者は誰ですか?
労働農民党の歴史的意義は何ですか?
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参考文献
- 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク
- ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
- 麻生久『無産政党とは何ぞ:誕生せる労働農民党』思潮社、1926年
- 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店、1959年
- 日本共産党『日本共産党の六十五年(上)』日本共産党中央委員会出版局