日露協約の歴史的変遷と展開
📌 主なポイント
- ✓日露協約は1907年から1916年にかけて計四回締結された。
- ✓第一次日露協約では、満洲の利益範囲を南北に分割する秘密協定が含まれていた。
- ✓1917年のロシア革命により、日露協約に基づく協力体制は崩壊した。
日露協約とは、日露戦争後の1907年から1916年にかけて、日本とロシア帝国の間で締結された一連の外交協定の総称です。両国はかつて朝鮮半島や満洲の支配権を巡り対立し、1904年から1905年にかけて戦争に至りましたが、戦後は極東における勢力圏の調整を目的として協調関係を模索しました。
背景:満韓交換論から協商へ
日清戦争後、日本国内ではロシアとの対立を不可避とする強硬論と、利害調整による開戦回避を唱える慎重論が対立していました。伊藤博文らは、満洲をロシアの、朝鮮を日本の勢力範囲と認める「満韓交換論」に基づき、両国の包括的な同盟関係(日露協商)を構想しました。しかし、1902年の日英同盟締結によりこの構想は頓挫し、両国は日露戦争へと突入しました。
四次にわたる日露協約
戦後、両国は関係改善を図り、以下の四次にわたる協約を締結しました。
第一次日露協約(1907年)
1907年7月30日、アレクサンドル・イズヴォリスキー外相と本野一郎駐露大使の間で調印されました。公開協定では清国の独立と門戸開放を掲げ、秘密協定では日本の南満洲、ロシアの北満洲における利益範囲を相互に承認しました。また、外蒙古と朝鮮における特殊権益も確認されました。
第二次日露協約(1910年)
1910年7月4日に調印。アメリカが提唱した南満洲鉄道の中立化案(ノックス提案)を両国で拒否し、満洲における既得権益の維持を確認しました。
第三次日露協約(1912年)
1912年7月8日に調印。辛亥革命後の混乱に対応するため、内蒙古を東部(日本)と西部(ロシア)に分割し、それぞれの利益範囲とすることを定めました。
第四次日露協約(1916年)
1916年7月3日に調印。第一次世界大戦の最中に結ばれ、極東における両国の特殊権益の擁護と、第三国による中国支配の阻止を再確認しました。
終焉
1917年に発生したロシア革命により、ロシア帝国が崩壊し、第一次世界大戦の戦況も変化したことで、日露協約に基づく両国の協力関係は事実上消滅しました。その後、連合国によるシベリア出兵を経て、日露関係は新たな局面を迎えることとなります。
よくある質問
日露協約の主な目的は何でしたか?
満韓交換論とはどのような考え方ですか?
なぜ第四次日露協約で協力関係は終わったのですか?
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参考文献
- 日本外交史研究会編『日本外交史』
- 外務省編『日本外交文書』