日本史
明治初期の留守政府:岩倉使節団派遣中の国内統治体制
明治初期、岩倉使節団の欧米派遣中に国内の行政を担った「留守政府」の役割、主要な政策、および明治六年政変に至る経緯を解説します。
📌 主なポイント
- ✓留守政府は明治4年11月から明治6年9月まで存続した。
- ✓三条実美が太政大臣として留守政府の首班を務めた。
- ✓学制、徴兵令、地租改正などの近代化政策がこの期間に推進された。
- ✓西郷隆盛の遣韓問題を巡る対立が明治六年政変の直接的な引き金となった。
留守政府(るすせいふ)とは、明治4年(1871年)から明治6年(1873年)にかけて、岩倉使節団が欧米を歴訪している間、日本国内の行政を担った政府体制を指す。太政大臣の三条実美を筆頭に、西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助らが中心となって組織された。
成立の背景
明治4年7月の廃藩置県直後、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら政府首脳の多くが岩倉使節団として外遊することとなった。これに伴い、国内の行政維持と廃藩置県後の諸制度の整備を行う必要が生じたため、留守政府が結成された。出発に際しては「大臣・参議・大輔盟約書」が交わされ、留守中の大規模な新規改革は控えること、一方で廃藩置県に伴う後始末は着実に進めることが取り決められた。
主な施策と改革
留守政府は、学制の制定、徴兵令の施行、地租改正の準備、太陽暦の採用、司法制度の整備など、近代国家の基盤となる重要な改革を積極的に推進した。これらは一見すると「新規の改革を控える」という盟約に抵触するように見えるが、実際には廃藩置県によって解体された旧体制に代わるシステムを構築するための不可欠な措置であった。多くの政策は使節団出発前から構想されていたものであり、留守政府はこれらを順次実行に移した。
政治的対立と明治六年政変
留守政府の運営において、政策以上に深刻な対立を招いたのは人事と財政を巡る問題であった。西郷隆盛は軍権を掌握し、参議の追加など独自の政治判断を行ったが、これが国外にいた大久保利通や木戸孝允らの不信感を招いた。また、大蔵省主導の財政改革を巡る対立から井上馨らが辞任に追い込まれるなど、政府内部の亀裂が深まった。最終的に、西郷隆盛が主導した「遣韓問題」を巡る意見の相違が決定的な対立となり、岩倉使節団の帰国後、明治六年政変へと発展した。
よくある質問
留守政府はなぜ組織されたのですか?
岩倉使節団が欧米歴訪のために政府首脳の多くを伴って外遊した際、国内の行政を維持し、廃藩置県後の諸制度を整備するために組織されました。
留守政府は盟約書に違反して改革を行ったのですか?
「新規の改革は控える」という盟約はありましたが、学制や徴兵令などは廃藩置県後のシステム再編として必要な「後始末」の一環と解釈されており、使節団も大筋で了承していたという説が有力です。
明治六年政変の原因は何ですか?
留守政府内での人事や財政を巡る対立に加え、西郷隆盛が主導した遣韓問題を巡って、帰国した岩倉使節団メンバーとの間で意見が激しく対立したことが主な原因です。
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参考文献
- 丹羽邦男『地租改正法の起源―開明官僚の形成』ミネルヴァ書房、1995年。
- 福地惇『明治新政権の権力構造』吉川弘文館、1996年。
- 勝田政治「明治六年の留守政府」明治維新史学会編『明治維新の政治と権力』吉川弘文館、1992年。
- 笠原英彦『明治留守政府』慶應義塾大学出版会、2010年。