両(質量・通貨単位)の歴史と変遷

📌 主なポイント
- ✓両は、尺貫法における質量の単位であり、近世の日本や中国などで通貨単位としても使用された。
- ✓古代中国の漢代において「24銖が1両、16両が1斤」とする体系が定められた。
- ✓江戸時代の日本では、金1両が4分、16朱に等しい四進法の通貨体系が採られ、小判1枚の価値に相当した。
- ✓明治4年(1871年)の新貨条例公布により、1両は新単位である1円と等価として切り替えられた。
両(りょう)は、古代中国に端を発する尺貫法における質量の単位であり、のちに日本や中国などにおいて金貨や銀貨といった通貨の単位としても広く用いられた歴史的な概念です。
質量単位としての両
質量の単位としての両は、古代中国で生まれた制度に由来します。漢代の『漢書律暦志』によれば、黄金や物質の軽量化を図るための基準として銖・両・斤・鈞・石の体系が整えられ、24銖を1両、16両を1斤と定められました。「両」という漢字は「二つ」の単位を合わせることに由来するとされています。
中国における1両の質量は時代や王朝によって変遷しました。唐代には十進法の制度が導入され、清代には庫平両が標準とされましたが、現代の中華人民共和国では1斤が500グラム、1両が50グラム(10両で1斤)に再定義されています。また、香港などの地域では独自の伝統的な司馬両や金衡両が運用されてきました。
日本には中国から唐代の大小両方の制度が伝えられました。江戸時代初期までは唐代の「両」が使われていましたが、寛文元年(1661年)以降は度量衡の「衡」が整理され、後藤四郎兵衛家が製作する分銅が基準となりました。明治時代以降はメートル法や新しい度量衡法への移行に伴い、公式の場では徐々に使用されなくなりました。
通貨単位としての両
通貨単位としての両は、中国の秤量銀貨(銀両)や、日本における金貨の単位として重要な役割を果たしました。日本では武田信玄が命じた甲州金によって通貨単位としての仕組みが確立され、これが江戸幕府へと継承されました。
江戸時代の貨幣制度において、金1両は4分に等しく、さらに16朱に等しい四進法の体系がとられました。これは小判1枚の貨幣価値に相当します。しかし、時代の推移とともにたび重なる改鋳が行われたため、小判に含まれる実際の金含有量や質量と、名目上の通貨単位としての「両」との間に乖離が生じるようになりました。
明治4年(1871年)に新貨条例が公布され、近代通貨単位として「圓(円)」が導入された際には、「1圓は1両と等価」と定められて旧通貨からの切り替えが行われました。
江戸時代の1両の価値
江戸時代を通じて、金1両の価値は経済状況や時期によって変動しました。幕府は公定相場を定めていましたが、市場における米価や諸物価、賃金などは日々変化していました。日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料などによると、時代ごとの米価換算では、江戸初期から幕末にかけて購入できる米の量や相対的な生活水準が大きく異なっており、単純な現代の貨幣価値への換算には慎重な検証が必要です。
よくある質問
「両」とはどのような単位ですか?
江戸時代の1両は、現在の価値に換算するとどのくらいになりますか?
日本で「両」から「円」へはいつ移行しましたか?
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参考文献
- 岩田重雄『計量史研究「近世における質量標準の変化」』日本計量史学会、1979年。
- 小葉田淳『日本の貨幣』至文堂、1958年。
- 日本銀行金融研究所 貨幣博物館『お金の歴史に関するFAQ「江戸時代の1両は今のいくら?―昔のお金の現在価値―」』2017年。