日本の歴史

律令制における朝廷の最高職「左大臣」の歴史と職務

律令制における太政官の最高職「左大臣」の歴史、職務、およびその変遷について詳細に解説する百科事典記事。

📌 主なポイント

  • 左大臣は太政官の職の一つであり、定員は1名である。
  • 「一上」の別称を持ち、実質的な太政官の最高責任者として朝議を主催した。
  • 1885年(明治18年)の内閣制度発足に伴い廃止された。

左大臣(さだいじん)は、日本の古代から中世にかけての朝廷の最高機関である太政官の職の一つである。定員は1名で、官位相当は正・従二位に位置づけられた。太政大臣、右大臣(後に内大臣を加える)とともに「三公」や「三槐」と総称される。

職務と権限

左大臣は、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。「一上(いちのえ)」の別称が示す通り、太政官における事実上の最高位として政務を主導した。

上位に位置する太政大臣は、功労者を待遇する名誉職としての意味合いが強く、具体的な職掌を伴わない場合が多かった。また、常設職ではなく「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたため、実質的な最高責任者として左大臣が朝政を動かす体制が整えられていた。さらに、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った場合には、代わってこれを弾劾する権限も有していた。

歴史的変遷

『六国史』や『公卿補任』の記録によれば、律令制の初期においては適任者不在のために闕官となる時期も少なくなかった。その場合は、次位の右大臣が政務を代行した。

10世紀前半の藤原忠平の時代以降、ほぼ常設の職として定着するようになった。平安時代に入ると、摂関政治の最盛期を築いた藤原道長や藤原頼通なども長期にわたって左大臣の地位にあり、権力の基盤とした。

明治維新以降も、天皇を輔佐して大政を統理する職として一時存続したが、1885年(明治18年)の内閣制度の発足に伴い廃止された。

よくある質問

左大臣の定員は何名ですか?
定員は1名です。
左大臣の別称は何ですか?
「一上(いちのえ)」などの別称があります。
左大臣はいつ廃止されましたか?
1885年(明治18年)の内閣制度の発足に伴い廃止されました。

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参考文献

  1. 「古事記をそのまま読む―資料3」古事記をそのまま読む、2025年7月22日閲覧。
  2. 「太政官」日本の歴史学講座、2025年7月22日閲覧。