嵯峨実愛:幕末から明治期の公卿・政治家の生涯と足跡

📌 主なポイント
- ✓文政3年12月5日(1821年1月8日)に生まれ、明治42年(1909年)に90歳で薨去した。
- ✓幕末に廷臣八十八卿の一人として通商条約締結に反対し、安政の大獄に連座した。
- ✓明治3年(1871年)に正親町三条家から嵯峨家へと改姓した。
- ✓詳細な記録である『嵯峨日記』を残し、宮内庁書陵部に写本が保存されている。
嵯峨実愛(さが さねなる、文政3年12月5日〈1821年1月8日〉 - 明治42年〈1909年)10月20日)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活動した日本の公卿、政治家。初名は正親町三条 実愛(おおぎまちさんじょう さねなる)。明治維新後に嵯峨へと改姓した。最高官位は従一位・権大納言。麝香間祗候。

生涯と経歴
文政5年(1822年)に叙爵されて以降、侍従や右近衛権少将、右近衛権中将などを歴任した。嘉永元年(1848年)に従三位参議となり公卿に列し、のちに権中納言などに進んだ。安政2年(1855年)の孝明天皇遷幸の際には、供奉の任を務めた。
安政5年(1858年)、江戸幕府が朝廷に対して日米修好通商条約などの通商条約締結の勅許を求めた際、廷臣八十八卿の一人として反対運動を展開した。この政治行動により、大老・井伊直弼による安政の大獄に連座することとなった。安政6年(1859年)に権大納言となり、万延元年(1860年)には議奏、文久2年(1862年)に国事御用掛に就任した。しかし、薩摩藩が主導する公武合体運動を支持し「航海遠略策」に賛同したことから、尊皇攘夷派の志士から敵視され、文久3年(1863年)に失脚した。
同年のおこった八月十八日の政変を経て朝廷に復帰。その後は討幕派の公卿として朝廷の政局を主導し、「討幕の密勅」を薩摩藩へ伝達する重要な役割を担った。
明治新政府における活動
明治元年(1868年)に新政府の議定に就任し、同2年(1869年)には刑部卿となった。その後も内国事務総督や教部卿などの要職を歴任した。明治3年(1871年)12月、家名を正親町三条から嵯峨へと改姓した。
晩年の明治13年(1880年)には勲一等旭日大綬章を受章。明治16年(1883年)には滋宮韶子内親王および明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の御用掛を拝命した。明治21年(1888年)に従一位に叙せられ、明治42年(1909年)に90歳で薨去した。墓所は東京都文京区湯島の麟祥院にある。
主な業績と記録
実愛は、幕末から明治にかけての政局の推移を詳細に記録した膨大な日記を残しており、これらは総称して『嵯峨日記』と呼ばれている。現在、その写本が宮内庁書陵部に保存されており、当時の朝廷や政治情勢を知るための重要な歴史資料となっている。
よくある質問
嵯峨実愛の元の姓は何ですか?
嵯峨実愛は幕末の政治においてどのような役割を果たしましたか?
嵯峨実愛が残した主要な記録は何ですか?
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参考文献
原口清『孝明天皇の死因について』『孝明天皇は毒殺されたのか』