西光万吉:全国水平社の創立と水平社宣言の起草者

📌 主なポイント
- ✓1895年、奈良県御所市の浄土真宗本願寺派西光寺に生まれる。
- ✓1922年の全国水平社創立大会において「水平社宣言」を起草・発表した。
- ✓戦前は社会主義運動から国家社会主義運動へ思想的変遷をたどり、戦後は非武装や原水爆禁止運動に関わった。
西光 万吉(さいこう まんきち、1895年〈明治28年〉4月17日 - 1970年〈昭和45年〉3月20日)は、戦前日本の部落解放運動家、社会運動家、政治運動家、著述家。本名は清原一隆。全国水平社の設立における中心人物であり、水平社宣言の起草者および水平社旗の意匠考案者として広く知られている。
生涯と背景
奈良県南葛城郡掖上村(現・御所市)の浄土真宗本願寺派西光寺の長男として生まれる。少年期から絵画の才能に優れ、中学校進学後も絵画を志して上京し、日本美術院や二科展などで入選を果たした。しかし、多感な青年期において自身の出自に起因する数々の差別に直面し、転校や離郷を経験した。
こうした出自をめぐる悩みや、米騒動などに触発された社会的関心を背景に、同郷の阪本清一郎や駒井喜作らとともに青年運動や社会改造運動に深く関与するようになっていった。

全国水平社の結成と水平社宣言
1921年に佐野学が発表した「特殊部落民解放論」などから影響を受けた西光は、阪本や駒井らと社会主義の「青年同志会」を発足し、全国水平社の創立準備を進めた。1922年3月3日に京都の岡崎公会堂で開催された全国水平社創立大会において、日本における近代的な被差別部落解放運動の出発点となる「水平社宣言」を発表した。
思想的変遷と戦後の活動
その後、労働農民党や日本共産党に参加したが、1928年の三・一五事件で検挙されて投獄された。獄中で思想転向を行い、釈放後は国粋主義や国家社会主義運動に傾倒し、大日本国家社会党への加入や奈良県議会議員への補欠当選などを経て活動した。
第二次世界大戦後は一転して日本の再軍備に反対し、非武装集団「和栄隊」の派遣を訴えるなど「不戦和栄」の運動や原水爆禁止運動に参加した。晩年は和歌山県で画家として過ごし、1970年3月20日に腹膜炎のため和歌山赤十字病院で死去した。享年74。
よくある質問
西光万吉の代表的な功績は何ですか?
西光万吉の本名は何ですか?
西光万吉はどのような晩年を送りましたか?
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参考文献
中央融和事業協会 編『融和事業年鑑(大正15年)』中央融和事業協会、1926年。
『朝日新聞』1970年3月20日夕刊訃報欄。