阪本清一郎:全国水平社の創設と部落解放運動
📌 主なポイント
- ✓1922年に結成された全国水平社の創設者の一人である。
- ✓「水平社」および「糺弾」という名称を考案した。
- ✓戦後は部落解放同盟の中央委員を務めたが、後に部落問題全国会議の結成に関わった。
阪本清一郎(1892年1月1日 - 1987年2月19日)は、日本の部落解放運動家、社会運動家、政治家です。全国水平社の創設者の一人として知られ、「水平社」および「糺弾(きゅうだん)」という名称を考案した人物として歴史に名を残しています。
生い立ちと初期の活動
奈良県南葛城郡掖上村柏原(現在の御所市)の裕福な地主の家に生まれました。家業として膠(にかわ)製造業を営んでいました。御所高等小学校を経て奈良市立商業学校に入学し、その後大阪市の成器商業学校を卒業しました。1909年、故郷の柏原で青年共和団を組織し、部落の生活改善に向けた活動を開始しました。
家業の技術向上に必要な化学を学ぶため上京し、東京工科学校(現・日本工業大学)で学びました。東京では同郷の西光万吉と下宿を共にし、山川均や堺利彦、大杉栄ら社会主義者の影響を受けました。1919年頃には西光や駒井喜作らと共に「燕会」を結成し、村政改革に取り組みました。
全国水平社と運動の展開
1920年に日本社会主義同盟に加盟し、1922年の全国水平社創立大会では創立者の一人として経過報告を行いました。組織の名称である「水平社」を考案したほか、中央執行委員として各地の水平社創立を支援し、差別糾弾闘争の指導にあたりました。運動内では組織の仲裁役として中間的な立場をとることもありました。
政治活動としては、1927年に労働農民党の中央委員に選出され、1929年には掖上村会議員に当選しています。その後、西光万吉と共に大日本国家社会党に加わり、国家主義への傾倒や経済更生運動、協同組合運動に関与しました。
戦後の活動
戦後は部落解放同盟の中央委員を務めました。しかし、組織内での対立が深刻化すると、1965年には木村京太郎らと共に「荊冠友の会」を結成しました。さらに1975年には北原泰作らと共に「部落問題全国会議」を結成し、部落解放同盟とは異なる立場から活動を展開しました。
人物
幼少期から西光万吉とは兄弟のように親密な関係にありました。1970年代には、当時の学生運動における過激な糾弾活動に対し、「水平運動は人間を尊敬することによって自ら解放せんとする者の集団運動であった」と批判的な見解を述べたとされています。
よくある質問
阪本清一郎はどのような名称を考案しましたか?
西光万吉との関係はどのようなものでしたか?
戦後の活動において、どのような組織に関わりましたか?
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参考文献
- 『日本社会運動人名辞典』青木書店、1979年。
- 木村京太郎『水平社運動の思い出』下巻。
- 『西光万吉著作集 第1巻』濤書房、1971年。
- 朝治武『差別と反逆 平野小剣の生涯』筑摩書房、2013年。
- 大賀喜子「阪本数枝にみる水平社とジェンダー」『人権問題研究』8号、大阪市立大学、2008年。