日本の歴史
三大事件建白運動の歴史的背景と展開
1887年に発生した三大事件建白運動の歴史的背景、建白書の主な内容、政府による保安条例発布までの経緯を詳しく解説する事典記事。
📌 主なポイント
- ✓三大事件建白運動は1887年10月に片岡健吉らが元老院に建白書を提出したことから始まった。
- ✓建白書の主な柱は、言論の自由の確立、地租軽減、対等な条約改正による外交の回復であった。
- ✓政府は1887年12月に保安条例を発布し、運動家を追放・逮捕して運動を抑圧した。
三大事件建白運動(さんだいじけんけんぱくうんどう)は、1887年(明治20年)10月に片岡健吉らが元老院へ建白書を提出したことを契機として展開された日本の政治運動である。大同団結運動と並び、後期自由民権運動の重要な局面として知られている。
歴史的背景と発端
1886年(明治19年)、第1次伊藤内閣の外務大臣であった井上馨は、欧米列強との間で不平等条約の改正交渉を進めた。しかし、日本側による大幅な譲歩が含まれていたことが明らかになると、国内外から強い反対の声が上がった。法律顧問を務めていたギュスターヴ・ボアソナードらが反対意見を提出し、1887年には農商務大臣の谷干城が条約改正案に反対して辞表を提出する事態に発展した。
建白書の提出と主張
政府の妥協的な姿勢や言論抑圧に対する批判が高まる中、高知県の民権派であった片岡健吉らは政府を非難し、1887年10月に元老院へ向けて「三大事件建白」と呼ばれる建白書を提出した。この建白書では、主に以下の3点が主張された。
- 言論の自由の確立
- 地租軽減による民心の安定
- 外交の回復(対等な立場による条約改正の実現)
この動きには、後藤象二郎が主導していた大同団結運動の盛り上がりも重なり、尾崎行雄や星亨らが呼応して民権派の結集と政府批判を展開した。
運動の挫折と保安条例
民権派による激しい政府批判と運動の広がりに対し、政府は強力な対抗措置に出た。1887年12月、政府は治安維持と取締りの強化を目的とする保安条例を発布した。これにより、片岡健吉をはじめとする多数の運動家が東京から追放され、相次いで逮捕された。この結果、三大事件建白運動は大きな挫折を余儀なくされ、自由民権運動全体にも深刻な分裂と停滞をもたらす契機となった。
よくある質問
三大事件建白運動が起きたきっかけは何ですか?
第1次伊藤内閣の外務大臣・井上馨が進めた欧化政策に基づく条約改正交渉に対し、反対運動や閣内からの辞職者が相次いだことがきっかけとなりました。
三大事件建白の主な要求事項は何ですか?
言論および集会の自由の確立、地租軽減による民心の安定、対等な立場に基づく外交の回復(条約改正の実現)の3点が柱でした。
運動はどのように終結しましたか?
1887年12月に政府が保安条例を発布し、片岡健吉ら多数の運動家を東京から追放・逮捕したことで、運動は大きな挫折を迎えました。
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参考文献
- 三大事件建白運動 - コトバンク