日本史

明治初期の対朝鮮外交論争と明治六年政変の歴史的展開

明治初期の対朝鮮外交論争と明治六年政変の歴史的展開
幕末から明治初期における征韓論の歴史的背景、明治六年政変の政治過程、および近現代の歴史研究における解釈の変遷について解説します。

📌 主なポイント

  • 征韓論は、幕末から明治初期にかけて唱えられた朝鮮半島に対する外交・軍事方針の総称であり、一般には1873年の明治六年政変を指す。
  • 新政府が発送した国書の形式や文言を巡る「書契問題」が、明治初年の対朝鮮外交行き詰まりの直接の端緒となった。
  • 1873年10月の閣議において岩倉具視や大久保利通らの内治優先論が採用され、西郷隆盛の遣使計画は無期延期となった。
  • 政変の結果、西郷隆盛や板垣退助らの征韓派参議が政府を離れ、その後の不平士族の反乱や自由民権運動の遠因となった。

征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期にかけて唱えられた朝鮮半島に対する外交・軍事方針の総称である。一般には、1873年(明治6年)に発生した朝鮮使節派遣問題をめぐる政府内の深刻な対立、すなわち明治六年政変を指すことが多い。

江戸時代および幕末における対朝鮮観の萌芽

江戸時代後期、国学や水戸学の一部、および吉田松陰らの思想において、古代の『古事記』や『日本書紀』の記述を論拠として日本が朝鮮半島に対して優位性や影響力を持っていたとする主張が現れた。幕末期には、欧米列強の進出に対抗する防衛策または外征論の一環として、朝鮮半島への進出論が唱えられるようになった。吉田松陰は国力を充実させるための一手段として周辺地域との関係構築を論じ、また幕府の外交政策においてもロシアや欧米の動向を背景として対朝鮮外交の再構築が模索された。

明治初年の書契問題と外交路線の対立

1868年(明治元年)、明治新政府は対馬藩を介して朝鮮政府に対し、王政復古の通告と国交樹立を求める書契(国書)を発送した。しかし、朝鮮側は新政府の文書が従来の形式や格式と異なること、また「皇」や「勅」といった文字が含まれていることを理由に受付を拒絶した。これがいわゆる書契問題である。

この外交的暗礁を乗り越えるため、日本政府内ではいくつかの対応路線が検討された。天皇の国書を携えた使節を派遣し、拒絶された場合は開戦も辞さないとする強硬論や、宗主国である清国との交渉を優先しつつ打開を図る穏健路線などが交錯した。1870年には佐田白茅や森山茂らが朝鮮へ派遣されたが、現地の頑くなな姿勢や排日的な動向が報告され、政府内では強硬な対朝鮮方針を主張する声が高まった。

明治六年政変の経過

1873年(明治6年)5月、釜山の大日本公館からの報告書を契機として、太政大臣の三条実美や参議である西郷隆盛、板垣退助らの間で朝鮮問題に関する本格的な閣議が再開された。板垣や三条らは居留民保護や使節派遣の必要性を論じ、最終的に西郷隆盛が自ら非武装の全権使節として朝鮮に赴き、外交交渉によって開国を促すという提案が内定された。

しかし、この使節派遣は交渉不成功の場合には軍事衝突や開戦に発展する危険を孕んでいたため、欧米視察から帰国した岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らは「内治優先」の立場から強く反対した。10月中旬、閣議での意見対立が激化する中、太政大臣代行の岩倉は天皇の裁断(宸断)を仰ぐという異例の手続きをとり、10月24日に明治天皇は使節派遣の無期延期を裁決した。

この裁定を受け、西郷隆盛は参議および近衛都督を辞任し、翌日には板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平ら他の征韓派参議も一斉に下野した。この政変は明治政府の権力構造を大きく塗り替える転換点となった。

政変後の影響と研究史の変遷

西郷らの下野後も、明治政府は台湾出兵(1874年)や江華島事件(1875年)といった対外強硬策や軍事行動を展開し、日朝修好条規の締結へと至った。また、下野した不平士族らは佐賀の乱などの士族反乱を引き起こし、やがて自由民権運動へと合流していった。

征韓論および明治六年政変の歴史的評価については、時代や研究者によって多様な解釈がなされてきた。戦前には西郷を大陸経綸の先駆者とする見方があった一方、戦後においては大久保らも含めた政府首脳全体の朝鮮進出に対する方向性の共通性が指摘された。さらに1970年代以降、毛利敏彦らの研究によって、西郷の遣使は侵略を意図したものではなく平和的な開国交渉であったとする説や、政変の本質は外交方針の対立ではなく政府内部の権力闘争であったとする説が提唱され、現在に至るまで活発な議論が続けられている。

よくある質問

征韓論の直接的なきっかけとなった出来事は何ですか?
明治新政府が発足した際、対馬藩を介して朝鮮政府に送付した国書(書契)が、従来の形式や「皇」「勅」といった文字が含まれていることを理由に朝鮮側に受け取りを拒否された「書契問題」が直接の端緒となりました。
明治六年政変で対立した主な人物は誰ですか?
自ら使節として朝鮮に赴くことを主張した西郷隆盛や板垣退助らのグループと、欧米から帰国し国内の体制固めや内治を優先すべきとして使節派遣に反対した岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが対立しました。
明治六年政変の結果はどうなりましたか?
岩倉具視らの働きかけにより明治天皇が使節派遣の延期を裁決したため、西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らの参議が抗議して一斉に下野しました。

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参考文献

  • 佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号、2011年。
  • 高橋秀直「征韓論政変と朝鮮政策」「征韓論政変の政治過程」『史林』、1992年・1993年。
  • 吉野誠「明治六年の征韓論争」『東海大学紀要 文学部』、2000年。