西洋および東洋の概念の歴史的変遷

📌 主なポイント
- ✓西洋は、東洋(オリエント)に対する概念であり、歴史的にはユーラシア大陸の西端に位置する文化圏を指す。
- ✓17世紀の中国の文献や世界地図では、元来は海域を東西に分ける呼称として「東洋」「西洋」が用いられていた。
- ✓江戸時代の日本では、新井白石の『西洋紀聞』などを皮切りにヨーロッパの文化や歴史を紹介する実体概念として「西洋」が使われ始めた。
- ✓明治時代以降、西洋と東洋は海域から陸域の文化・歴史を総称する対概念へと変化した。
西洋(せいよう、英: the West、ラテン語圏由来の表現としてオクシデント:Occident)は、一般に東洋(the East, Orient、オリエント)の対概念として用いられる言葉である。歴史的にはユーラシア大陸の西端と東端に存在する二つの文化圏を指す表現として用いられてきたが、その地理的および文化的な意味合いは時代や地域によって大きく変化してきた。
現代の日本語においては、ヨーロッパや北アメリカなどを中心とする文化圏を総称して西洋と呼ぶことが一般的であるが、この概念が日本や中国においてどのように受容され、変遷してきたのかには独自の歴史的過程が存在する。

中国における「東西洋」の歴史
17世紀の中国においては、東洋や西洋という表現は、海域を東西に分けた呼称として使われていた。坪井九馬三や高桑駒吉の研究によると、これらの表現は中国人が考えた四海の一つである南海の航路、およびその航路上に存在する諸国を泉州や広州を通過する南北子午線によって分けたことに由来するとされている。
14世紀半ばの中国文献では、ブルネイ以東を東洋、インドシナ半島からインドへかけてを西洋と記述していた。1616年に張燮が著した『東西洋考』では、ブルネイ(文莱)を東洋の尽きるところ、西洋の始まる所として位置づけている。
また、1602年にイタリア人のイエズス会士マテオ・リッチが作成した世界地図『坤輿万国全図』においては、世界の地理名称がすべて漢語に翻訳され、インド西海岸に小西洋、ポルトガルの西海上に大西洋という記述がなされている。この地図は後に日本など東アジア諸国にも大きな影響を与えた。
日本における受容と変遷
日本においては、江戸時代から明治時代にかけて西洋および東洋という言葉の意味や使われ方が大きく変容していった。
江戸時代における海域と文化概念
マテオ・リッチの『坤輿万国全図』は17世紀初頭に日本へ伝来し、国内で多くの世界地図が作成される契機となった。しかし、初期の日本製世界地図では海域を示す東洋・西洋の呼称は直ちには定着せず、17世紀末に至るまで世界地図の海域に名前をつける発想は一般的ではなかったとされる。
1698年頃に渋川春海が作成した『世界図』においてインド洋が小西洋、ポルトガル沖が大西洋と記されて以降、海域呼称としての東洋・西洋が使われ始めるようになった。幕末期になると英語のパシフィック・オーシャン(Pacific ocean)やアトランチック・オーシャン(Atlantic ocean)が流入し、大東洋や小東洋という呼称は「太平洋」へと移行し、小西洋は「インド洋」と呼び換えられ、大西洋の名称のみが残る形となった。
一方で、実体的な文化概念としてヨーロッパを紹介する出版物も登場した。1715年には新井白石が『西洋紀聞』を著し、1801年には山村才助が『西洋雑記』を、1808年には佐藤信淵が『西洋列国史略』を出版するなどして、ヨーロッパの歴史や事情が伝えられた。

明治時代以降の対概念化
明治維新以降、東洋および西洋という対概念は海域を示すものではなく、政治、経済、歴史、科学技術、文化、社会といった人間の活動全体を総称する陸域の文化概念として転用されるようになった。
西洋の補完概念として「東洋」の概念が定着し、脱亜入欧の潮流の中でヨーロッパ視点におけるオリエントの訳語として東洋が充てられた。これにより、西洋(欧州)の対義語としてアジア全域を指す言葉として使われるようになった。歴史研究の分野でも、那珂通世の提唱などにより、西洋史、東洋史、国史という三分野に分ける教育・研究システムが構築されていった。