セルビア共和国 (1990年-2006年)

📌 主なポイント
- ✓1990年、セルビアは社会主義体制を放棄し、新憲法のもとで民主主義体制を導入した。
- ✓1992年に結成されたユーゴスラビア連邦共和国において、セルビアは人口・面積の面で中心的な役割を担った。
- ✓1999年のコソボ紛争とそれに伴うNATO空爆の結果、コソボは国際連合の暫定行政下に入った。
- ✓2000年10月の市民蜂起によりスロボダン・ミロシェヴィッチ政権が崩壊した。
- ✓2006年のモンテネグロ独立に伴いセルビア・モンテネグロ国家連合が解体され、セルビア共和国が単独の独立国となった。
1990年から2006年までのセルビア共和国は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体から、ユーゴスラビア連邦共和国(第三ユーゴスラビア)、そしてセルビア・モンテネグロ国家連合に至る激動の時代におけるセルビアの政治的地位と国家体制を指す。この時期、バルカン半島全体の紛争や体制移行に伴い、セルビアは内外で大きな変革を経験した。

1990年、ユーゴスラビア共産主義者同盟の崩壊に伴い、セルビア社会主義共和国は社会主義体制を放棄した。新憲法の制定により、セルビアは民主主義体制をとる共和国へと移行し、呼称も「セルビア共和国」へと改められた。

ユーゴスラビア連邦共和国の時代
1992年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の最終的な解消に伴い、セルビア共和国とモンテネグロ共和国は新国家であるユーゴスラビア連邦共和国を結成した。人口と面積で優位に立つセルビアは、連邦内において事実上支配的な地位を占めることとなった。

この時期の政治は、スロボダン・ミロシェヴィッチの指導の下で進められた。ミロシェヴィッチはボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアにおけるセルビア人勢力を支援し、一連のユーゴスラビア紛争へと関与した。1995年にはボスニア紛争を終結させるデイトン合意に署名している。

コソボ紛争とミロシェヴィッチの失脚
1998年から1999年にかけて、アルバニア人住民が多数を占めるコソボ・メトヒヤ自治州でコソボ紛争が激化した。1999年にはNATOによるセルビア空爆が行われ、ベオグラードを含む主要都市が攻撃を受けた。結果としてベオグラード政府はコソボの統治権を失い、同地は国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の管理下に置かれた。

経済的困窮と長期化する紛争への不満から、2000年10月の市民による大規模な抗議行動(ブルドーザー革命)が発生し、ミロシェヴィッチは政権から追放された。その後、彼は旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に引き渡された。
セルビア・モンテネグロと独立
2003年、ユーゴスラビア連邦共和国は憲法改正を経て緩やかな国家連合であるセルビア・モンテネグロへと移行した。同年の3月には改革派の首相ゾラン・ジンジッチが暗殺されるなどの混乱も経験した。
2006年、モンテネグロで国家連合からの独立を問う住民投票が実施され、欧州連合が定めた基準を上回る賛成票によりモンテネグロが独立を宣言した。これに伴いセルビア・モンテネグロ国家連合は解体され、セルビアもまた1918年以来となる独立国としての地位を回復した。
よくある質問
1990年から2006年までのセルビアはどのような国家体制でしたか?
スロボダン・ミロシェヴィッチはどのような役割を果たしましたか?
セルビア・モンテネグロ国家連合はなぜ解体されたのですか?
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参考文献
- セルビア共和国 (1992年-2006年) Wikipedia記事および関連資料