日本の歴史
文久の政治変動と七卿落ちの全貌

文久3年の八月十八日の政変により京都から追放された尊王攘夷派の七人の公家の動向やその後の明治政府における復帰について解説する歴史記事。
📌 主なポイント
- ✓七卿落ちは文久3年8月18日の八月十八日の政変を契機に発生した。
- ✓失脚した7名の公家は長州藩兵に付き添われ、京都から長州方面へ落ち延びた。
- ✓7名のうち公卿は三条実美と三条西季知の2名であり、残りの5名は朝臣であった。
- ✓慶応3年12月の朝議で赦免された後、多くのメンバーが明治政府で要職に就いた。
七卿落ち(しちきょうおち)とは、文久3年8月18日(1863年9月30日)に発生した八月十八日の政変において、薩摩藩や会津藩などの公武合体派が主導した政局の急変により、京都から追放された7人の公家が長州藩へ落ち延びた事件である。

背景と政変の経緯
文久3年8月、京都において尊王攘夷派の勢力が伸長する中、公武合体派である薩摩藩や会津藩などが連携してクーデターを断行した。これが八月十八日の政変である。この政治的敗北により、失脚した尊王攘夷派の公家7名は朝廷での立場を失い、京都からの退去を余儀なくされた。
長州藩への逃避行
失脚した7名の公家は、長州藩兵に付き添われて洛東の妙法院に集結した。その後、兵庫津を経て海路で長州藩の三田尻港を目指した。しかし移動の途中で悪天候に見舞われ、利用していた3隻のうち2隻が徳山藩の徳山港に上陸を強いられることになった。上陸後は陸路を移動し、最終的にそれぞれが長州藩内へと落ち延びた。

対象となった七卿の構成
失脚し落ち延びた7名は、一般に「二卿五朝臣」とも称される。公卿の列にあったのは三条実美と三条西季知の2名であり、残りの5名は朝臣であった。
- 三条実美(従三位権中納言)
- 三条西季知(正二位行権中納言)
- 四条隆謌(従四位上行侍従)
- 東久世通禧(正四位下行左近衛権少将)
- 壬生基修(従四位上行修理権大夫)
- 錦小路頼徳(従四位上行右馬頭)
- 澤宣嘉(正五位下行主水正)
事件後、同年8月24日には官位が剥奪され、さらに9月9日にはそれぞれの諱の改めが命じられた。
その後の動向と明治政府での復帰
逃避行の後、錦小路頼徳は元治元年(1864年)に病没した。澤宣嘉は生野の変で挙兵した後に四国方面へ逃れたのち長州へ脱出し、残る5名の公家は第一次長州征伐のあとに筑前国の太宰府へ移された。

慶応3年12月(1868年1月)、王政復古の大号令の直前に行われた朝議にて赦免され、官位や諱が復された。明治期に入ると、澤宣嘉は外務卿、三条実美は太政大臣や内大臣、三条西季知は参与や神宮祭主、東久世通禧は枢密院副議長や貴族院副議長に就任するなど、それぞれが新政府の要職で活動した。

よくある質問
七卿落ちとはどのような事件ですか?
文久3年8月18日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が、京都から追放されて長州藩などへ落ち延びた事件です。
七卿に含まれる人物は誰ですか?
三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉の7名です。
七卿落ちのメンバーはその後の明治政府でどうなりましたか?
王政復古の直前に赦免・官位復旧がなされ、三条実美が太政大臣、澤宣嘉が外務卿、東久世通禧が枢密院副議長など、それぞれ明治政府の要職に就きました。
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参考文献
明神博幸「第三章 国論の分裂」『幕末の加賀・富山藩と越中国:ペリー艦隊来航から大政奉還まで』2016年。
伊東宗裕『京都石碑探偵』光村推古書院、2004年。
『孝明天皇紀:巻168』宮内省先帝御事蹟取調掛編、1906年。
伊東宗裕『京都石碑探偵』光村推古書院、2004年。
『孝明天皇紀:巻168』宮内省先帝御事蹟取調掛編、1906年。