志賀重昂:明治・大正期の地理学者・評論家

📌 主なポイント
- ✓1863年、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)生まれ。
- ✓札幌農学校を卒業後、地理学者・評論家として活動。
- ✓『日本風景論』は日本の地理学における代表的な著作。
- ✓木曽川中流域を「日本ライン」と命名した。
- ✓1927年に63歳で死去。
志賀重昂(しが しげたか、文久3年11月15日〈1863年12月25日〉 - 昭和2年〈1927年〉4月6日)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員です。矧川(しんせん)という号でも知られています。
生涯
三河国岡崎康生町(現・愛知県岡崎市)で、岡崎藩の儒者・志賀重職の長男として生まれました。明治13年(1880年)に札幌農学校へ進学し、在学中から北海道や青森県各地を調査するなど、地理への関心を深めました。明治17年(1884年)の卒業後は、長野県の中学校や師範学校で教鞭をとりました。
その後、海軍の練習艦「筑波」に便乗して海外視察を行い、明治20年(1887年)に出版した『南洋時事』で列強の植民地化競争を報じ、注目を集めました。明治21年(1888年)には政教社を組織し、機関誌『日本人』を創刊。国粋主義を標榜しつつも、西欧文明を咀嚼・消化して取り入れるべきという独自の思想を展開しました。

政治面では、衆議院議員を務めたほか、農商務省山林局長への就任や、日露戦争時の観戦武官としての活動など、多岐にわたる経歴を持ちます。明治44年(1911年)からは早稲田大学教授として教壇に立ち、死までその職にありました。

地理学への貢献と命名
志賀は日本各地の風景を学術的かつ情緒的に捉え、『日本風景論』(1894年)を出版しました。この著書はロングセラーとなり、日本の地理学において重要な位置を占めています。また、大正2年(1913年)には、岐阜県を流れる木曽川中流域の風景を「日本ライン」と命名したことでも知られています。さらに、大正12年(1923年)には恵那峡の命名も行いました。
晩年
大正期には英国王立地学協会の名誉会員に推されるなど、国際的にも評価されました。昭和2年(1927年)に63歳で没し、墓所は東京都杉並区の宗源寺にあります。また、遺言により岐阜県美濃加茂市の祐泉寺にも分骨されました。
よくある質問
志賀重昂の代表的な著作は何ですか?
「日本ライン」という名称は誰が付けたものですか?
志賀重昂はどのような思想を持っていましたか?
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参考文献
- 岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近代編 I]』 原書房、2011年。
- 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年。
- 小林泉「南洋群島と日本による委任統治」『島嶼研究ジャーナル』第9巻第1号、2019年。