日本の歴史

私学校 (明治初期の鹿児島)

私学校 (明治初期の鹿児島)
明治初期に西郷隆盛によって鹿児島に設立された私学校の歴史や概要、西南戦争との関わりについて解説します。

📌 主なポイント

  • 明治初期の1874年6月に鹿児島県に設立された陸軍士官養成のための教育機関である。
  • 西郷隆盛をはじめ、大山綱良や大久保利通らが資金を拠出して設立に関わった。
  • 1877年の生徒による弾薬庫襲撃事件が引き金となり、西南戦争が勃発した。

私学校(しがっこう)は、明治初期の鹿児島県に存在した教育機関の俗称である。現在の鹿児島市城山町(鹿児島医療センター敷地)に位置していた。

設立の背景と経緯

1873年(明治6年)の政変によって下野した西郷隆盛は、1874年(明治7年)6月に旧鹿児島城(鶴丸城)の敷地内において、陸軍士官の養成を目的とした教育機関を設立した。これらは「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校から構成されていた。

幼年学校は、明治維新における功績に対して与えられた賞典禄を資金源として設立されたため、「賞典学校」とも称された。西郷隆盛をはじめ、鹿児島県令の大山綱良や桐野利秋、さらには参議の大久保利通らがそれぞれ資金を拠出した。一方で、残りの学校の運営費には県の予算が充てられ、鹿児島県内の各地には分校も設置された。

私学校跡地に残る正門
私学校跡地に残る正門

教育方針と実態

西郷隆盛自身が筆を執り、道義や人民の義務に関する二箇条の綱領が定められた。日々の教務の中心は、漢文の素読および軍事教練であった。

この学校が設立された背景には、不平士族の暴発を未然に防ぐという目的があったとされている。そのため、入学資格は士族、りわけ元城下士の出身者に限定されていた。大山綱良の意向も働き、鹿児島県下の行政や警察の組織は、次第に私学校の影響下にある人物で占められるようになっていった。

西南戦争と廃止

1877年(明治10年)1月29日、大久保利通や警視総監の川路利良らが陰謀を巡らせているとの噂に激昂した私学校の生徒らが、鹿児島の鎮台弾薬庫を襲撃した。この事件が直接の引き金となり、西南戦争が勃発することになった。私学校は西南戦争の終結に伴い、そのまま廃止された。

壁には無数の弾痕が残る
壁には無数の弾痕が残る

現状

現在、敷地跡には当時の門と壁の一部が史跡として残されている。なお、これらの門と壁は1955年(昭和30年)の国道10号線拡張工事に伴い、城山寄りに13メートルほど原形のまま移設されたものである。周辺には鶴丸城跡や城山、南洲神社など、西郷隆盛や西南戦争にゆかりのある史跡が点在している。

よくある質問

私学校は誰によって設立されましたか?
明治六年政変で下野した西郷隆盛を中心に、大山綱良や桐野利秋、大久保利通らの拠出金などを基に設立されました。
私学校の入学資格にはどのような制限がありましたか?
士族、特に元城下士の出身者に限定されていました。
私学校は現在どうなっていますか?
建物は残っていませんが、1955年に移設された当時の門と壁が史跡として現存しています。

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西郷隆盛西南戦争鶴丸城大山綱良大久保利通

参考文献

  • 私学校とは - コトバンク(世界大百科事典第2版)
  • 私学校跡 - 鹿児島市
  • 麓純雄『鹿児島市の歴史入門』南方新社、2016年