私擬憲法に見る明治初期の憲法構想と自由民権運動
📌 主なポイント
- ✓私擬憲法は、大日本帝国憲法発布前に民間で検討された憲法の私案であり、現在60以上の存在が知られている。
- ✓もっとも古い私擬憲法は明治3年(1870年)に江藤胤雄が起草した『国法会議案、附国法私議』である。
- ✓明治14年(1881年)の国会期成同盟の決議を契機に、全国で多数の私擬憲法が作成された。
- ✓明治20年(1887年)に制定された保安条例により、私擬憲法の検討および作成が禁止された。
私擬憲法(しぎけんぽう)とは、明治時代の大日本帝国憲法発布以前に、民間の政治結社や知識人などの手によって独自に検討・起草された憲法の私案の総称である。国会開設運動の高まりを背景に、将来の国家体制や国民の権利を模索する中で全国各地で多数作成された。
歴史的背景と展開
明治初期、急速な近代化が進む中で国会開設や憲法制定を求める自由民権運動が活発化した。国会開設の前提として憲法の必要性が広く認識されるようになり、明治13年(1880年)11月に開催された国会期成同盟第2回大会では、翌明治14年(1881年)に憲法草案を持参することが決議された。これを受けて全国各地で多種多様な私擬憲法がつくられるようになった。
現存が確認されている私擬憲法は60以上に及び、その内容は起草者や結社の政治的立場によって大きく異なっていた。皇帝の権限を重んじる穏健なものから、人民主権や議院内閣制を主張するもの、さらに抵抗権や革命権を容認し、国民の手による皇帝の廃立を規定した過激な草案まで存在した。
主な私擬憲法と起草者
現存する最も古い私擬憲法としては、明治3年(1870年)10月に佐賀藩士・江藤胤雄が起草した『国法会議案、附国法私議』が挙げられる。その後も青木周蔵による『大日本政規』(明治5年)や、宇加地新八の『建言議院創立之議』(明治6年)などが続けられた。
明治12年(1879年)以降は、共存同衆や嚶鳴社による起草が全国に先駆けて始まり、特に「嚶鳴社憲法草案」はその後の各地の起草活動に大きな影響を与えた。また、民権派の思想を色濃く反映したものとして、植木枝盛による『東洋大日本国国憲按』や、千葉卓三郎が関わったとされる『五日市憲法草案』などが広く知られている。
終焉
明治20年(1887年)12月26日に制定・発布された保安条例により、私擬憲法の検討および作成は厳しく禁じられた。このため、民間で作られたこれらの私擬憲法が直接政府の公式な憲法制定過程や『大日本帝国憲法』の条文に反映されることはなかった。