日本の歴史
島義勇:北海道開拓の礎を築いた佐賀藩士

北海道開拓の父として知られる佐賀藩士、島義勇の生涯と功績を解説。札幌の都市計画や開拓使での活動、その最期までを検証します。
📌 主なポイント
- ✓島義勇は佐賀藩士であり、明治政府の開拓判官として札幌の都市計画を立案した。
- ✓「北海道開拓の父」と呼ばれ、札幌の碁盤の目状の街並みの基礎を築いた。
- ✓明治7年(1874年)の佐賀の乱に参加し、刑死した。
- ✓没後150年となる2024年には、札幌や佐賀で顕彰行事が行われた。
島義勇(1822年 - 1874年)は、江戸時代末期から明治初期にかけて活躍した佐賀藩士であり、明治政府の官吏です。特に北海道の開拓、とりわけ札幌の都市建設に着手した人物として知られ、「北海道開拓の父」と称されています。

幕末期の活動
文政5年(1822年)、肥前国佐賀城下に生まれました。藩校・弘道館で学び、諸国を遊学して佐藤一斎や藤田東湖らに師事しました。安政年間には藩主・鍋島直正の命を受け、蝦夷地や樺太の調査を行い、『入北記』を著しました。戊辰戦争では新政府軍の参謀として東北地方の征討に従事しました。
札幌の建設と開拓使
明治2年(1869年)、蝦夷地が開拓使の管轄となると、島は開拓判官に任命されました。当時の札幌は未開の原野でしたが、島は「五州第一の都」を目指し、碁盤の目状の都市計画を立案しました。厳冬期における過酷な環境下で建設を強行し、開拓三神を祀るなど祭政一致の体制を整えました。しかし、予算や場所請負人制度をめぐる対立から、明治3年(1870年)に解任されました。

最期と顕彰
帰京後は秋田県の初代権令などを務めましたが、明治7年(1874年)に江藤新平らと共に佐賀の乱を起こし、敗北して刑死しました。没後、その功績は再評価され、札幌市や北海道神宮には銅像が建立されています。また、北海道神宮では毎年命日の4月13日に慰霊祭が執り行われています。


よくある質問
島義勇が「北海道開拓の父」と呼ばれる理由は?
札幌の都市建設において、原野であった地に碁盤の目状の都市計画を導入し、現在の札幌市の礎を築いたためです。
島義勇はなぜ開拓判官を解任されたのですか?
開拓費用をめぐる上層部との対立や、当時の場所請負人(利権者)との衝突が主な原因とされています。
「判官さま」という名称の由来は何ですか?
島義勇の官職が「開拓判官」であったことに由来し、現在では北海道神宮境内で販売される焼き菓子の名前としても親しまれています。
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参考文献
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 榎本洋介『島義勇(佐賀偉人伝)』佐賀県立佐賀城本丸歴史館、2011年。
- 河原﨑暢『札幌を開府した島義勇解任と梟首の謎』北海道出版企画センター、2021年。
- 北海道新聞デジタル「島義勇没後150年、札幌で集い 北海道開拓の父、功績たたえる」(2024年4月13日)