日本近代演劇の先駆者:島村抱月の生涯と業績

📌 主なポイント
- ✓島村抱月は1871年2月28日に島根県で生まれ、1918年11月5日にスペイン風邪に伴う急性肺炎のため47歳で急逝した。
- ✓東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業後、オックスフォード大学やベルリン大学へ留学し、帰国後は早稲田大学教授を務めた。
- ✓坪内逍遙らと文芸協会を設立し、後に松井須磨子と共に劇団「芸術座」を結成して新劇の大衆化に貢献した。
島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日〈明治4年1月10日〉 - 1918年〈大正7年〉11月5日)は、日本の文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人である。本名は瀧太郎、旧姓は佐々山。日本における自然主義文学運動の旗手の一人であり、坪内逍遙らと共に文芸協会や劇団「芸術座」を率いて、明治から大正期にかけての新劇運動を牽引した。
生涯と経歴
島根県那賀郡小国村(現・浜田市)に佐々山一平の長男として生まれる。実家の破産などにより貧困の中で育ったが、浜田町裁判所検事であった島村文耕からの学資援助を受けて上京し、1891年に文耕の養子となった。
東京専門学校(現・早稲田大学)文学科で坪内逍遙や大西祝に師事し、美学や文学を学び、1894年に卒業する。「早稲田文学」の記者や読売新聞社会部主任を経て、母校の講師に就任した。1902年から1905年までイギリスのオックスフォード大学およびドイツのベルリン大学へ留学し、帰国後は早稲田大学文学部教授となった。
文学・演劇活動
帰国後に『早稲田文学』を復刊(第二次)して主宰し、「囚はれたる文芸」や「文芸上の自然主義」を発表して自然主義文学理論を主導した。1906年には坪内逍遙と共に文芸協会を設立し、1909年の演劇研究所の開設を通じて本格的な新劇運動を展開した。
しかし、1913年に研究所の看板女優であった松井須磨子との恋愛関係が明るみに出たことで文芸協会を辞任することになる。同年9月、抱月は須磨子と共に劇団「芸術座」を結成し、有楽座での公演を開始した。1914年にはレフ・トルストイの小説を基に脚色した舞台『復活』が大評判となり、劇中歌として須磨子が歌った『カチューシャの唄』はレコード化されて大ヒットを記録し、新劇の大衆化に大きく貢献した。
晩年と急死
1915年には須磨子と共にロシアのウラジオストクを訪れ、プーシキン劇場で合同公演を行って好評を博した。しかし、1918年に世界的な大流行を見せていたスペイン風邪に罹患し、急性肺炎を併発して東京市牛込区横寺町の芸術倶楽部の居室において47歳で急逝した。
記念碑と墓地
故郷の島根県浜田市には、浜田城山公園内の記念碑をはじめ、生誕地周辺に複数の顕彰碑や文学碑、公園が整備されており、その業績が伝えられている。また、東京都の雑司が谷霊園にあった墓所は、後年の管理事情等から2022年に墓じまいが行われ、遺骨は故郷である浜田市の浄光寺にある島村家の墓に納められている。
よくある質問
島村抱月の本名は何ですか?
島村抱月が関わった代表的な劇団は何ですか?
島村抱月の死因は何ですか?
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参考文献
- 「早稲田文学」1918.12(抱月追悼号)
- 早稲田大学百年史 第三編 東京専門学校時代後期 第四章 文学科講師陣と初期学生『四 増田藤之助』
- 下川耿史『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』河出書房新社、2003年。
- 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』東京堂出版、1997年。
- 近現代史編纂会編著『大正クロニクル』世界文化社、2012年。