日本の歴史・令制国

信濃国:古代から中世における東山道の令制国

信濃国:古代から中世における東山道の令制国
かつて日本の地方行政区分であった東山道の令制国「信濃国」の歴史、名称の由来、古代から中世にかけての展開について詳しく解説します。

📌 主なポイント

  • 信濃国は東山道に属する日本の古い令制国の一つであり、現在の長野県および岐阜県中津川市の一部を領域とした。
  • 当初は「科野国」と表記されていたが、大宝4年(704年)以降に「信濃国」へ改められた。
  • 平安時代末期以降、「信州」という別称でも呼ばれるようになった。

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道に属する。現在の長野県および岐阜県中津川市の一部に相当する領域である。

名称の由来

古くは「しなぬ」と呼ばれ、『日本書紀』などの歴史書には「斯那奴」の字が充てられていた。「科野(しなの)」の語源については諸説存在し、江戸時代の国学者である谷川士清や賀茂真淵らが「科の木」に由来するという説を唱えているほか、山国の地形における段差を意味する古語である「科」や「級」に由来するという説も挙げられている。

飛鳥時代の7世紀末頃までは「科野国」と表記されていたが、大宝4年(704年)の諸国印鋳造時に「信濃国」へ改められた。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけては「信州」とも称されるようになった。

古代の歴史

『古事記』等の神話において、建御名方神が科野国の洲羽の海(諏訪湖)へ逃れ、同地に鎮まったことが伝えられている。歴史的な実像としては、崇神天皇の時代に武五百建命が初代科野国造に任じられたと伝わり、大化の改新以降は評(のちの郡)が設置されて地方支配が進められた。

また、信濃国には多くの名代・部曲が置かれ、朝鮮半島や大陸からの渡来人が関わったとされる記録や地名、木簡などの考古資料が多数出土している。飛鳥時代から奈良時代にかけては、木曽路の開通や官道の整備が進められ、東山道における重要な交通・軍事の要衝としての役割を担った。

平安時代から中世の動向

平安時代には、朝廷による初期荘園の立荘や公営田の設置が進んだ。一方で、仁和4年(888年)には八ヶ岳山麓の大規模な崩壊による大規模な河道閉塞が発生し、千曲川流域に甚大な被害をもたらした。平安時代末期には、源氏の一族や地元の武士団が台頭し、源義仲が信濃の兵を率いて挙兵するなど、歴史の大きな舞台となった。

よくある質問

信濃国は現在のどの地域に相当しますか?
現在の長野県全域と、岐阜県中津川市の一部に相当します。
「信濃」という名称の由来は何ですか?
「科の木」に由来するという説や、山国の地形における段差を意味する「科」や「級」に由来するという説などが古くから唱えられています。
信濃国はどの地方行政区分に属していましたか?
五畿七道のひとつである「東山道」に属していました。

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参考文献

古川貞雄「風土と人間」(古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社、2003年) | 『長野県史 通史編 第一巻 原始・古代』(1989年) | 『日本歴史地名大系 第20巻 長野県の地名』(平凡社、1979年)