新国劇の歴史と足跡:近代日本演劇における「剣劇」の創出
📌 主なポイント
- ✓新国劇は1917年に澤田正二郎らによって結成された日本の劇団である。
- ✓歌舞伎とは異なるリアルな立ち回りを特徴とする「剣劇」を創出した。
- ✓『月形半平太』や『國定忠治』などの行友李風による作品を初演し、劇団の財産演目とした。
- ✓1931年以降、島田正吾と辰巳柳太郎が主役に抜擢され、劇団の黄金期を支えた。
- ✓1987年の創立70周年記念公演を最後に解団した。
新国劇(しんこくげき)は、かつて日本に存在した劇団である。歌舞伎とは異なるリアルな立ち回りを特徴とする「剣劇」を創出し、大正から昭和にかけて多くの観客を魅了した。
創設の経緯
1917年(大正6年)、芸術座を脱退した澤田正二郎らによって結成された。澤田は早稲田大学在学中に坪内逍遥が責任者を務める文芸協会の演劇研究所に入所し、その後島村抱月の組織した芸術座で活動していたが、新たな表現を目指して独立を決意した。新富座での旗揚げを経て、関西での興行などを経ながら独自の演劇スタイルを模索していった。
劇団名の「新国劇」は、新旧両派の歌舞伎劇を超える新しい日本の劇を標榜し、恩師である坪内逍遥から与えられたものである。
剣劇の確立と発展
新国劇は、従来の歌舞伎よりも現実的で激しい殺陣を取り入れた時代物によって男性客を中心に人気を集めた。1919年には京都明治座で『月形半平太』、大阪弁天座で『國定忠治』がいずれも行友李風の脚本により初演され大ヒットを記録し、これらは劇団の財産演目となった。
1929年に創設者である澤田正二郎が急死するという大きな危機に見舞われたものの、理事の俵藤丈夫や文芸部長の竹田敏彦らが中心となって立て直しを図った。1931年には若手俳優であった島田正吾と辰巳柳太郎が主役に抜擢され、戦前の全盛期を支える劇団の大きな柱となった。
戦後の活動とテレビとの提携
第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲下において、1949年には『大菩薩峠』の上演が許可され、戦後最大のヒットを記録した。しかし、昭和30年代以降は大衆娯楽の多様化や男性観客の減少に伴い興行は徐々に低迷を迎えた。
経営難を打破するため、1968年にフジテレビジョンと提携して株式会社化したが、制作方針を巡る摩擦や映画製作の赤字などから関係が悪化し、1972年に提携を解消した。その後も資金繰りの悪化や経営陣の交代を経て、1979年には経営不振から会社組織としての新国劇は倒産に至った。その後は「演劇集団・新国劇」として活動を継続した。
解団と後継組織
1987年、御園座や新橋演舞場にて創立70周年記念公演を行い、同年をもって新国劇は解団した。「新国劇」の名称は遺族に返還され、中堅メンバーは新たに劇団若獅子を創設してその精神を受け継いだ。