日本のプロ野球選手

新富卯三郎:昭和期に活躍したプロ野球選手・戦没者

昭和期にプロ野球選手として活躍し、第二次世界大戦で戦没した新富卯三郎の生涯と経歴についての詳細な解説。

📌 主なポイント

  • 1915年2月13日生まれ、福岡県出身。
  • 大日本東京野球倶楽部および阪急軍で外野手・一塁手としてプレーした。
  • 1941年には阪急軍でチームトップの長打力を発揮し、球団初の2位躍進に貢献した。
  • 1945年8月1日、ビルマ戦線にて30歳で戦死した。

新富卯三郎(しんとみ うさぶろう、本名:乙松 卯三郎〈おとまつ うさぶろう〉、1915年2月13日 - 1945年8月1日)は、福岡県出身の日本のプロ野球選手・外野手、一塁手。

経歴

福岡県の小倉工業学校(現・福岡県立小倉工業高等学校)時代には春夏合わせて5度の甲子園大会に出場し、主に三塁手や捕手としてプレーした。卒業後は門司鉄道局に進み、小柄な体格ながら4番打者として活躍を見せた。

1934年に大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)へ入団し、同年開催された第一次アメリカ遠征にも参加した。その後、1936年に軍隊へ召集されて退団したが、1939年10月に阪急軍へ入団してプロ野球界へ復帰を果たした。

阪急軍に在籍した1941年には、リーグ12位となる打率.232を記録したほか、二塁打、三塁打、本塁打でチームトップの成績を残し、球団初となるリーグ2位躍進に貢献した。しかし同年12月、太平洋戦争の戦況悪化に伴い再び軍隊に召集された。1945年8月1日、終戦間近のビルマ戦線において地雷を踏み、30歳で戦死した。

選手としての特徴

身長164cm、体重64kgとプロ野球選手としては小柄であったが、全身を使った力強いスイングで長打を放つ打撃を持ち味とした。1934年の日米野球における第二次アメリカ遠征中には、日本人選手が放った本塁打3本のうちの1本を記録している。

よくある質問

新富卯三郎の主な所属球団は何ですか?
大日本東京野球倶楽部(東京巨人軍)と阪急軍に所属していました。
新富卯三郎はどのようなプレースタイルでしたか?
小柄な体格ながら全身を使ったパワフルなスイングを持ち味とし、長打力のある打者として活躍しました。
新富卯三郎はいつ亡くなりましたか?
1945年8月1日に、ビルマ戦線において戦死しました。

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参考文献

  • プロ野球人名事典 2003、日外アソシエーツ、2003年、285ページ。
  • 『戦場に散った野球人たち』文藝春秋、2014年5月30日。