昭和初期の農業恐慌と農村の窮乏
📌 主なポイント
- ✓1930年から1931年にかけて、生糸と米の価格暴落により日本の農村経済が壊滅的な打撃を受けた。
- ✓1930年は豊作にもかかわらず米価が下落する「豊作飢饉」が発生した。
- ✓東北地方を中心に欠食児童が約20万人発生し、身売りが深刻な社会問題となった。
- ✓政府は負債整理事業や農山漁村経済更生運動を通じて農村の救済を試みた。
昭和農業恐慌とは、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本を襲った深刻な経済不況(昭和恐慌)が、農業および農村社会に及ぼした壊滅的な影響を指す。当時の日本農村は米と繭(生糸)を二大収入源としていたが、世界恐慌の影響でその両方が価格暴落に見舞われ、農村経済は極度の疲弊に陥った。
恐慌の発生と背景
1929年の世界恐慌以降、アメリカ合衆国の景気後退により生糸の対米輸出が激減し、繭価格が暴落した。さらに、1930年には日本国内で豊作となったものの、朝鮮や台湾からの米流入も重なり、米価が急落した。この年は「豊作飢饉」とも呼ばれ、収穫量が多いにもかかわらず農家が経済的に困窮するという事態が発生した。当時の大蔵大臣・井上準之助によるデフレ政策も、農村の購買力をさらに低下させる要因となった。
農村の窮乏と社会問題
1931年以降、東北地方や北海道地方では冷害による大凶作が追い打ちをかけた。不況により都市部での兼業機会が失われ、失業者が農村へ帰還したことで、農村の困窮は深刻化した。この時期、東北地方を中心に欠食児童が急増し、身売り的な出稼ぎや嫁入りが社会問題となった。また、税収減に伴う公務員の給与不払い問題や、小作料を巡る小作争議の激化も各地で見られた。
政府の対応と政策の転換
立憲民政党内閣の農林大臣であった町田忠治は、緊縮財政を維持しつつ、地方税の減税などを通じて農村の自助努力を促す方針を採った。一方で、農務局長であった石黒忠篤らは、農家への直接的な資金援助の必要性を主張した。その後、犬養内閣が成立すると石黒が農林次官に就任し、負債整理事業や救農土木事業、農山漁村経済更生運動といった直接的な救済政策が推進されることとなった。
恐慌の長期化
1933年以降、日本の輸出景気は回復局面に入ったが、農村の苦境は続いた。同年には昭和三陸津波が発生し、東北地方の太平洋沿岸部に甚大な被害を与えた。さらに1934年の記録的な大凶作により、農村経済の回復は遅れ、農産物価格が恐慌前の水準にまで戻ったのは1936年であった。
よくある質問
昭和農業恐慌の主な原因は何ですか?
「豊作飢饉」とはどのような状態ですか?
当時の政府はどのような対策を講じましたか?
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参考文献
- 中村政則『世界恐慌と日本』(朝日百科日本の歴史11 近代II)、朝日新聞社、1989年。
- 森武麿ほか『現代日本経済史』、有斐閣、2002年。
- 町田忠治伝記研究会編『町田忠治 伝記編』、桜田会、1996年。
- 岩手放送編『新版 岩手百科事典』、岩手放送株式会社、1988年。