明治期における出版条例の変遷と役割

📌 主なポイント
- ✓出版条例は1869年から1893年まで施行された一連の法令である。
- ✓当初は言論統制が主目的であったが、版権保護の規定も含まれていた。
- ✓1887年の改正で事前検閲が廃止され、届出主義へと移行した。
- ✓1893年の出版法制定により実効性を喪失した。
出版条例は、明治政府が1869年(明治2年)から1893年(明治26年)まで、出版物や言論の取締りおよび版権保護を目的として施行した一連の法令の総称である。明治維新直後の混乱期において、政府は新聞や書籍を通じた言論活動を管理下に置くため、段階的に規制を強化した。
制定の背景と初期の規制
幕末から明治初年にかけて、新聞の発行が活発化したが、その多くは佐幕派によるものであり、新政府にとって脅威となっていた。政府は1868年(慶応4年/明治元年)に新聞の廃刊を命じるなど、厳しい対応をとった。その後、1869年1月には図書出版の官許手続きが設けられ、同年2月には「新聞紙印行條例」が布告された。これにより、出版物の検閲が開始され、翻訳書の発行には裁判所の許可が必要とされるなど、言論に対する統制が具体化された。
出版条例の成立と展開
1869年5月13日、行政官により「書籍准刻事務ヲ学校ニ属シ出版条例ヲ定ム」が公布され、昌平学校および開成学校が検閲を担うこととなった。これが「出版条例」という名称が初めて用いられた規定である。全20箇条からなるこの条例では、出版物の政府への納本義務や、翻訳物における出典明記が求められた。また、政務の機密漏洩や誹謗、風俗を乱す内容の出版が禁じられた一方で、出版者に対する版権保護の側面も含まれていた。
その後、1872年(明治5年)の改正により、文部省への出願と免許の検印が義務付けられた。1875年(明治8年)には、讒謗律の制定と連動して内務省が所管となり、原稿の事前検閲が強化された。この時期の罰則は言論界にとって大きな脅威となった。
法規の整理と終焉
1887年(明治20年)の全部改正では、原稿の事前検閲規定が廃止され、届出主義へと移行した。一方で、治安や風俗を害する出版物に対する内務大臣の行政処分権が強化された。また、版権保護規定が「版権条例」として分離・独立したことも大きな特徴である。1893年(明治26年)に「出版法」が制定されたことで、出版条例はその実効性を喪失した。

よくある質問
出版条例の主な目的は何でしたか?
出版条例はいつまで続きましたか?
1887年の改正で何が変わりましたか?
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参考文献
- 彌吉光長「新聞紙条例と讒謗律の犠牲者―明治初期出版変転」『出版研究』第16号、日本出版学会、51-71頁。
- 『法令全書(慶應3年10月-明治45年7月) 明治8年』内閣官報局、1889年。