幕末期における尊王攘夷思想の歴史的展開
📌 主なポイント
- ✓尊王攘夷とは、天皇を尊び外敵を斥けることを目的とした政治思想である。
- ✓幕末の尊王攘夷論は、水戸学や国学、儒教的な大義名分論に強く影響を受けている。
- ✓1853年のペリー来航を契機として、日本各地で尊王攘夷運動が本格化した。
尊王攘夷(そんのうじょうい)とは、天皇を尊び、外敵を斥けようとする政治思想である。江戸時代末期(幕末)において水戸学や国学の影響を受け、維新期に大きな政治的スローガンとなった。
語源と歴史的背景
「王を尊び、夷をはらう」という意味を持つこの言葉は、古代中国の春秋時代に周王朝の天子を尊び、侵入する異民族を打ち払った覇者の標語に由来する。日本においては、江戸時代の中華思想や名分論の浸透に伴い、鎌倉・室町時代に見られた「王」の用例から、幕末には「尊皇」に置き換えられて用いられることが多くなった。
幕末期における「尊王攘夷」の用例としては、水戸藩の藩校弘道館の教育理念を示した『弘道館記』が早い時期のものであり、実質的な起草者である藤田東湖の著作などを通じて水戸学の影響が広く流布した。また、頼山陽の『日本外史』なども大義名分論の普及に寄与した。
尊王論と攘夷論の形成
尊王論は、皇室を神聖なものとして尊敬することを主張する思想である。一方、攘夷論は、欧米列強によるアジアへの進出や植民地化の波、そして日本国内におけるゴローニン事件やフェートン号事件などの外来船との摩擦を背景として、日本を防衛する目的から生まれた。
1853年(嘉永6年)のマシュー・ペリーによる黒船来航を契機として、江戸幕府が諸藩に外圧への対応を諮問したことで、尊王攘夷運動は本格化した。
幕末の政治変動と変容
1854年(嘉永7年)に日米和親条約をはじめとする条約が締結され、日本が開港へと向かう中、幕府の政策に対する反発から諸藩の動きが活発化した。薩摩藩や長州藩などが朝廷と幕政に大きな影響力を持つようになる。
その後、1865年(慶応元年)に孝明天皇が安政の不平等条約に対する勅許を与えたことにより、「即今攘夷」が事実上困難となり、「攘夷」の意味は不平等条約の撤廃を目指す「破約攘夷」へと実質的に変化していった。やがて、欧米の圧力を背景に、一時的な開国や国内統一、富国強兵を優先する動きが強まり、これが倒幕運動や明治維新へと繋がっていった。
よくある質問
尊王攘夷とはどのような思想ですか?
尊王攘夷思想はどのような学問に影響を受けましたか?
幕末における攘夷論の背景には何がありましたか?
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参考文献
- 尾形勇『歴史学事典』【第7巻 戦争と外交】
- 尾藤正英「水戸学の特質」、『日本思想大系53 水戸学』、岩波書店、1973年。