日本の歴史

駿府藩の歴史と変遷:江戸初期から明治の静岡藩までの歩み

江戸時代初期に駿府城を中心に設置された駿府藩の歴史、歴代藩主、そして明治期に静岡藩へと移行した背景と藩政の変遷を解説します。

📌 主なポイント

  • 駿府藩は、駿府城を中心に江戸時代初期および明治初期に存在した藩である。
  • 徳川家康が御大所として駿府城に入った時期や、徳川頼宣・徳川忠長らが藩主を務めた時期がある。
  • 明治2年(1869年)に「府中」から「静岡」へと藩名が変更された。
  • 明治4年(1871年)の廃藩置県により静岡藩は廃止され、静岡県となった。

駿府藩(すんぷはん)は、江戸時代初期および明治時代初期に、駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)を中心に存在した藩である。駿河府中藩あるいは単に府中藩とも称された。徳川家康の隠居地や親藩・譜代大名の領地として変遷を重ね、明治維新後には徳川宗家を当主とする静岡藩へと引き継がれた。

歴史的背景と前史

戦国時代、駿河国は今川氏の支配下にあったが、武田信玄の駿河侵攻によって今川氏が没落した後は、武田氏、後北条氏、徳川氏による領地争奪の舞台となった。天正10年(1582年)の武田氏滅亡に伴い徳川家康の支配下に入り、天正18年(1590年)の小田原征伐後に家康が関東へ移封されると、豊臣秀吉の家臣である中村一氏が入封した。関ヶ原の戦いを経て、慶長5年(1600年)に一氏の子・中村一忠が伯耆米子藩へ移封されている。

江戸時代の変遷

内藤氏の入封と家康の直轄

慶長6年(1601年)2月、伊豆国韮山より徳川譜代の家臣である内藤信成が4万石で入封し、駿府藩が成立した。しかし慶長11年(1606年)に信成が近江国長浜藩へ移封されると、大御所として実質的な幕政を執っていた徳川家康が駿府城に入ったため、一時的に藩としては廃止された。

徳川頼宣の時代

慶長14年(1609年)12月、家康の十男である徳川頼宣が駿河・遠江二国および東三河50万石で入封し、駿府藩が復活した。ただし、頼宣は幼少であり、実権は引き続き駿府城にいる家康が握っていた。元和5年(1619年)に頼宣が紀伊国和歌山藩へ転封となると、駿府藩は再び廃藩となった。

徳川忠長と幕府直轄領時代

寛永2年(1625年)1月、第3代将軍・徳川家光の弟である徳川忠長が駿河・遠江・甲斐など55万石で封じられ、駿府藩が再設置された。しかし、忠長は家光との不仲に加え、数々の不行跡や乱行が問題視され、寛永9年(1632年)に改易されて高崎藩で自害した。その後、江戸幕府の直轄領となり、駿府城代や町奉行が置かれる体制が長く続いた。

明治時代:静岡藩の成立と終焉

慶応3年(1867年)の大政奉還とそれに続く戊辰戦争を経て、徳川宗家は大きな転換点を迎えた。慶応4年(1868年)5月、徳川慶喜の後を継いだ田安亀之助(後の徳川家達)に対し、駿河・遠江などで70万石が与えられ、駿河府中藩が立藩した。これに伴い、周辺諸藩の移封が相次いだ。

明治2年(1869年)6月、版籍奉還に伴う知藩事就任に際し、「府中」の名称が「不忠」に通じるとして、静岡学問所頭取の向山黄村の提案により静岡藩へと改称された。大量の旧幕臣が静岡に移住したため藩財政は極めて逼迫し、渋沢栄一らを起用した財政再建が進められた。明治4年(1871年)7月の廃藩置県により静岡藩は廃止され、静岡県となった。

よくある質問

駿府藩が設置された主な地域はどこですか?
駿府藩は、現在の静岡県を中心とする駿河国や遠江国のほか、時期によって三河国や甲斐国などの地域にまたがって設置されていました。
なぜ静岡藩に改称されたのですか?
明治2年(1869年)に徳川家達が知藩事となる際、「府中」という名称が「不忠」に通じることを懸念し、静岡学問所頭取の向山黄村の提案によって静岡藩に改称されました。
静岡藩の財政が厳しかったのはなぜですか?
旧幕府領の総石高に比べて大幅に少ない70万石での立藩であったにもかかわらず、多くの旧幕臣が生活を頼って静岡に移住し、藩が禄を支給する対象が膨らんだため、財政が非常に逼迫しました。

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参考文献

和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史 近世』和歌山県、1990年。
千田稔「廃藩置県以前の秩禄処分(新朝臣)」『一橋研究』第25巻、1973年。
太政官 編『復古記 第四冊』内外書籍、1929年。