田子の浦港ヘドロ公害と富士喘息

📌 主なポイント
- ✓田子の浦港のヘドロ公害は、1960年代から1970年代にかけて製紙工場の排水が主因となって発生した。
- ✓1970年の抗議活動には約5,000人が参加し、漁船団による海上デモも行われた。
- ✓田子の浦港の浚渫事業は1970年から1981年まで続き、総額68億円が投じられた。
- ✓富士喘息は製紙工場からの排煙による大気汚染が原因とされ、1978年には認定患者数が1,000人を超えた。
田子の浦港ヘドロ公害は、1960年代から1970年代前半にかけて静岡県富士市で発生した大規模な環境汚染問題です。製紙工場から排出された排水により、田子の浦港の海底に大量のヘドロが堆積し、港湾機能の麻痺や悪臭、周辺海域の漁業被害を引き起こしました。また、これと並行して製紙工場からの排煙による大気汚染が深刻化し、気管支喘息などの呼吸器疾患が多発する「富士喘息」も社会問題となりました。
ヘドロ公害の発生と経過
富士市における製紙会社と住民との軋轢は、明治時代から存在していましたが、高度経済成長期に入ると工場の増大に伴い汚水排水問題が急増しました。1970年(昭和45年)8月には、駿河湾の漁師らが「ヘドロ公害追放」を掲げて抗議活動を行い、約5,000人規模の反対運動に発展しました。当時、田子の浦港吉原埠頭の水深はヘドロの堆積により1〜2メートルにまで浅くなり、大型貨物船の入港が困難になる事態が生じました。
この問題に対し、富士市内の製紙会社は浄化処理場の設置を余儀なくされました。堆積したヘドロの浚渫(しゅんせつ)事業は1970年から開始され、1981年(昭和56年)に完了するまで、11年の歳月と68億円の費用が投じられました。
富士喘息と大気汚染
水質汚濁と並行して発生した大気汚染は、特に児童の健康に深刻な影響を及ぼしました。1968年以降、千葉大学による学童の発病調査や富士市医師会による検診が行われ、製紙工場に近い地域での喘息患者の多発が確認されました。これを受け、1971年に「富士市大気汚染に係る健康被害の救済に関する条例」が制定されました。
1974年には「公害健康被害補償法」が施行され、国と市の制度による救済が行われました。1978年には認定患者数が1,000人を超えるなど多大な影響を及ぼしましたが、その後、排出規制の強化や環境改善が進むにつれ、認定者数は減少傾向をたどりました。
火力発電所建設を巡る対立
1960年代後半、東京電力による火力発電所の建設が計画されましたが、既に深刻な大気汚染を抱えていた富士市では住民の反発が激化しました。1969年3月の市議会では、建設反対派の乱入や流血騒ぎが発生するなど、議会運営が混乱する事態となりました。最終的に建設は妥当とされたものの、公害問題への社会的な関心の高まりの中で、計画は頓挫しました。
よくある質問
田子の浦港ヘドロ公害の主な原因は何ですか?
富士喘息とはどのような病気ですか?
ヘドロの浚渫はいつ完了しましたか?
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参考文献
- 環境省「図で見る環境白書 昭和48年版」
- 富士市「富士市二十年史」
- 独立行政法人環境再生保全機構「現存被認定者数の推移」
- 鈴木「富士市における公害問題の展開」(2019)