大逆事件の全貌と歴史的背景
📌 主なポイント
- ✓明科事件は1910年5月に宮下太吉が逮捕されたことで表面化した明治天皇暗殺計画である。
- ✓大審院の裁判により、1911年1月に24名が死刑、2名が有期刑の判決を受けた。
- ✓幸徳秋水や管野スガを含む複数の死刑囚に対して1911年1月下旬に死刑が執行された。
- ✓戦後の資料公開により、当時の政府による大規模な思想弾圧・冤罪事件としての側面が指摘されるようになった。
大逆事件とは、明治天皇に対する暗殺計画(明科事件)を口実として、明治政府が国内の社会主義者や無政府主義者を一斉に弾圧・検挙した歴史的事件である。1910年(明治43年)に表面化し、翌1911年に多数の死刑判決が下された。
明科事件の発端と計画
1910年5月25日、長野県の機械工で社会主義者であった宮下太吉が、爆発物取締罰則違反容疑で逮捕された。宮下は勤務先の明科製材所(現:長野県安曇野市)で爆弾を製造し、1909年11月3日に爆破実験を行っていたことが判明した。この計画への関与が疑われ、宮下のほかに管野スガ、新村忠雄、古河力作の計4名が逮捕された。
検挙の拡大と裁判
明科事件の摘発を契機として、警察や政府による社会主義者・無政府主義者の大規模な検挙が始まった。軍隊、工場、学校、報道関係、宗教界など幅広い階層にわたって秘密調査が行われ、内務省は取締りを全国に拡大する方針をとった。
大審院(当時の最高裁判所)長官であった横田国臣のもと、裁判所は1911年1月18日に被告24名へ死刑、2名へ有期刑の判決を下した。1月24日から翌日にかけて、幸徳秋水や管野スガ、宮下太吉ら12名の死刑が執行された。その他の死刑囚についても特赦による無期懲役への減刑が行われたが、服役中に獄死する者が相次いだ。
国際的な反響と後年の評価
裁判の判決を下す前の1910年11月には、アメリカの無政府主義者エマ・ゴールドマンらがニューヨークで抗議集会を開催したほか、イギリスやフランスの日本大使館前でも抗議運動が行われた。
第二次世界大戦後になり、思想的な制約が緩和されると関係資料が公開され、当時の政府が体制批判的な人物を弾圧した冤罪事件であるという見方が広まった。1960年代以降には再審請求運動が行われたが、最高裁判事は大逆罪がすでに廃止されていることなどを理由に、1967年に免訴の判断を下している。