総合雑誌「太陽」の歴史と文化的影響

📌 主なポイント
- ✓博文館が1895年1月から1928年2月まで発行した総合雑誌である。
- ✓日清戦争の勝利を背景に、「欧米諸国に負けない総合雑誌を」という趣旨で創刊された。
- ✓高山樗牛や長谷川天渓をはじめとする複数の編集主幹が時代ごとに誌面を支えた。
- ✓樋口一葉、永井荷風、森鷗外などの著名な文学者の作品が多数初出として掲載された。
『太陽』(たいよう)は、明治から昭和初期にかけて博文館によって発行された日本の総合雑誌である。1895年(明治28年)1月に創刊され、1928年(昭和3年)2月に廃刊となるまで、計531冊が刊行された。日清戦争の勝利を背景に、「日本は世界の大国になったのだから、欧米諸国に負けない総合雑誌を」という趣旨のもとに創刊された歴史を持つ。

創刊の経緯と発行体制
1894年12月、日清戦争の勝利が決定的となる中で博文館は「太陽発刊の主意」を発表し、翌年1月に『太陽』を創刊した。創刊にあたり、同社は既刊の多数の専門雑誌(『日本商業雑誌』『日本大家論集』『婦女雑誌』など)を『太陽』誌に統合し、大規模な総合雑誌として出発した。
刊行頻度は月刊または半月刊であり、寸法は四六倍判、菊判、菊倍判などが採用された。本文約200ページに加え、口絵や別冊も付属していた。初期の発行部数については、博文館の調べによれば10万部に近い部数を誇ったとされる。
編集主幹の変遷
創刊から廃刊に至るまで、以下の人物が編集人(編集主幹)を務めた。
- 坪谷善四郎(水哉):1895年1月 - 1897年5月
- 高山樗牛:1897年6月 - 1902年12月
- 鳥谷部銑太郎(春汀):1903年1月 - 1909年1月
- 浮田和民:1909年2月 - 1917年6月
- 浅田彦一(江村):1917年7月 - 1923年9月
- 長谷川誠也(天渓):1923年10月 - 1927年3月
- 平林初之輔:1927年4月 - 1928年2月
誌面の特徴と掲載作品
記事の内容は政治、経済、社会、軍事、歴史、工業、宗教、芸術、文学、家庭など多岐にわたった。第1巻の執筆陣には、依田学海、加藤弘之、久米邦武、三宅雪嶺、渋沢栄一、福地源一郎、坪内逍遙、幸田露伴、樋口一葉、島崎藤村など、当時の多様な分野の著名人が名を連ねた。
また、数多くの文学作品が同誌に初出として掲載された。主な作品には、泉鏡花の『海城発電』や『鷺の灯』、永井荷風の『酔美人』『夜半の酒場』、森鷗外の『安井夫人』『栗山大膳』、志賀直哉の『プラトニック・ラヴ』などが含まれている。
廃刊に至る経緯
1923年の関東大震災後、探偵小説の流行を追い、平林初之輔を編集人に据えてプロレタリア的評論や小説を掲載するなどの試みが行われた。しかし、大正デモクラシー期の時流や時代の変化に乗り遅れ、1928年2月をもって廃刊となった。
よくある質問
雑誌『太陽』はいつからいつまで発行されましたか?
『太陽』を発行していた出版社はどこですか?
『太陽』にはどのようなジャンルの記事が掲載されていましたか?
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参考文献
- 日本近代文学館編:『太陽総目次』、八木書店(1999/1)
- 国立国語研究所編:『太陽コーパス雑誌「太陽」日本語データベース』、博文館新社(2005)
- 上野隆生「雑誌『太陽』の一側面について」『東西南北』第2007巻、252-285頁、2007年3月