日本の歴史

高田事件 (自由民権運動)

高田事件 (自由民権運動)
1883年に新潟県高田・頸城地方で発生した自由民権運動に対する弾圧事件である高田事件の歴史的経緯と背景について解説します。

📌 主なポイント

  • 発生年月日は1883年3月20日である。
  • 新潟県高田・頸城地方を中心とした自由党員が標的となった。
  • 逮捕者の大部分は証拠不十分などで不起訴または事実上の無罪となった。
  • 赤井景韶のみが天誅党結成に関する直筆の趣意書を根拠に有罪判決を受けた。

高田事件(たかだじけん)は、1883年3月20日に発生した、新潟県高田・頸城地方(現在の新潟県上越市)を中心とする自由党員らを対象とした自由民権運動に対する弾圧事件である。逮捕された大部分が冤罪であったとされる歴史的事案である。

背景と事件の端緒

1883年3月10日、富山県高岡の瑞龍寺において、自由党員による北陸七州有志懇談会が開催された。これにより北陸地方における自由民権運動は高まりを見せていた。しかし、3月19日になって参加者の1人である長谷川三郎が警察官を侮辱した容疑で逮捕され、翌日にはその自白を根拠として、加藤貞盟、八木原繁祉、赤井景韶ら新潟県の活動家20名余りが政府転覆容疑で相次いで逮捕された。

後に判明したところによれば、長谷川三郎は新潟始審裁判所高田支庁の検事補であった堀小太郎の部下であり、スパイとして活動に参加していた。長谷川は堀と打ち合わせた上で、地元自由党幹部を検挙へと導くための工作を行っていた。

国事犯高田事件碑
「国事犯高田事件碑」(新潟県上越市金谷山)

捜査の展開と大部分の不起訴

同年5月までに、党員や支持者らあわせて37名が逮捕された。しかし、政府転覆計画に関する捜査は実態を伴わない見込み捜査であり、大半の容疑者については十分な証拠が見つからなかった。そのため、8月までに22名が不起訴処分となった。

加藤貞盟や八木原繁祉ら自由党幹部12名は起訴されたものの、公判を維持することができず、免訴および責付釈放となり、事実上の無罪となった。

赤井景韶の裁判とその後

一方で、同時に逮捕されていた赤井景韶については、前年11月4日に井上平三郎および風間安太郎とともに高田で協議を行い、「天誅党」と呼ばれる秘密結社を結成して政府高官の暗殺計画を企てたとされる件が浮上した。「天誅党」の結成趣意書は具体的なものではなかったものの、赤井の自筆による文書であったため、当局は3名を国事犯として告発した。

赤井以外の2名は協議への参加が認められたものの、計画参加を示す明確な物的証拠に欠けるとして、高等法院の予審で免訴となった。しかし、赤井については自筆の趣意書が決め手となり、1883年12月17日に重禁錮9年の判決が下された。

赤井景韶の墓
赤井景韶の墓(新潟県上越市金谷山)

赤井は翌年3月に石川島監獄から脱獄し、逃走中に目撃した人力車車夫を殺害した。その後、9月に静岡県で逮捕され、1885年7月27日に殺人罪によって絞首刑に処された。

歴史的評価

逮捕された大部分の人物に対する容疑は当局によるでっち上げの告発に基づくものであり、後に発覚した赤井景韶の案件とも直接の関連性はなかった。赤井の件自体も、見込み捜査の過程で偶然に発覚したものであった。そのため、高田事件は自由民権運動の弾圧を目的とした当局による捏造事件として位置づけられている。

よくある質問

高田事件とはどのような事件ですか?
1883年に新潟県高田・頸城地方で発生した、自由民権運動および自由党員に対する当局の弾圧事件です。
事件のきっかけは何ですか?
北陸七州有志懇談会の参加者であった長谷川三郎が警察官侮辱容疑で逮捕され、その自白をもとに活動家らが政府転覆容疑で逮捕されたことが発端となりました。
裁判の結果はどうなりましたか?
大半の容疑者は証拠不十分で不起訴や免訴となりましたが、赤井景韶のみは直筆の趣意書を根拠に重禁錮9年の判決を受けました。

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参考文献

大日方純夫「高田事件」『日本史大事典 4』(平凡社、1993年)ISBN 4-582-13104-2
阿部恒久「高田事件」『国史大辞典 9』(吉川弘文館、1988年)ISBN 4-642-00509-9