竹橋騒動:明治時代の近衛兵による武装反乱

📌 主なポイント
- ✓1878年(明治11年)8月23日に発生した近衛兵による武装反乱である。
- ✓主な動機は西南戦争後の恩賞に対する不満や待遇改善の要求であった。
- ✓事件後、軍人勅諭の発案や憲兵制度の創設など、軍制の抜本的な改革が進められた。
竹橋騒動(たけばしそうどう)は、1878年(明治11年)8月23日から24日にかけて、東京の竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。竹橋事件とも呼ばれる。

背景と動機
事件の主な背景には、西南戦争後の財政削減に伴う恩賞の不満があった。特に士官と兵卒の間で恩賞に大きな格差があることに対し、兵卒たちの間で不満が高まっていた。また、兵役制度の変更による退職金の廃止や、家督相続者の徴兵免除といった制度上の問題も不満の要因として挙げられている。
1878年7月上旬、近衛砲兵大隊の兵卒らが中心となり、増給を求めて決起する計画が練られた。計画は徐々に拡大し、東京鎮台予備砲兵大隊の将校や下士官も巻き込む形となった。計画は暗号や合言葉を用いるなど組織的な側面もあったが、決起直前には内務省へ情報が漏洩していた。
事件の経過
8月23日午後11時、近衛砲兵大隊の兵卒ら約259名が山砲2門を引き出して蜂起した。反乱兵は駆けつけた大隊長の宇都宮茂敏少佐と週番士官の深沢巳吉大尉を殺害した。その後、反乱軍は市中へ進出し、大蔵卿大隈重信の邸宅を銃撃、周辺に放火した。この戦闘により鎮圧軍側で2名、反乱軍側で6名の死者が出た。
弾薬を消耗した反乱軍は、赤坂仮皇居へ向かい参議を虜にしようと試みたが、警備にあたっていた近衛歩兵隊に阻止された。指導者の一人であった大久保忠八が自決するなど士気が低下し、8月24日午前1時半には全員が武装解除し投降した。
影響とその後
事件後、陸軍裁判所による尋問が行われ、三添卯之助ら55名が銃殺刑に処されたほか、多数の兵士や将校が処分を受けた。この事件は、軍内部の統制強化の必要性を浮き彫りにした。その後の軍人勅諭の発案や、軍内部の秩序維持を目的とした憲兵制度の創設、さらに皇居警備を専門とする門部(後の皇宮警察)の設置に大きな影響を与えた。
よくある質問
竹橋事件の主な原因は何ですか?
事件はどのくらいの時間で鎮圧されましたか?
この事件が後の軍制に与えた影響は?
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参考文献
- 竹橋事件百周年記念出版編集委員会『竹橋事件の兵士たち』徳間書店、1979年。
- 岩倉具視書翰 大木喬任宛 明治11年8月23日『大木喬任関係文書』国会図書館資料請求番号S38-001。
- 澤地久枝『火はわが胸中にあり 忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件』岩波書店、2008年。