日本の歴史

常陸平氏の有力武士団・多気氏の歴史と動向

常陸平氏の一派であり、平安時代から鎌倉時代にかけて活動した武士団・多気氏の歴史的変遷や近年の研究成果について解説します。

📌 主なポイント

  • 多気氏は、平繁盛の息子で貞盛の養子となった維幹を祖とする常陸平氏の有力武士団である。
  • 治承・寿永の乱において一時源頼朝と敵対したが、後に帰順した。
  • 建久4年(1193年)に多気義幹が八田知家の中傷により失脚した。
  • 近年の研究では、資幹以前の常陸平氏が大掾の地位を継承していた事実はないとされている。

多気氏(たけし)は、平安時代から鎌倉時代にかけて常陸国を拠点に勢力を持った武士団であり、常陸平氏の有力な一派として知られています。通字には常陸平氏の伝統的な「幹」(もと)が用いられました。

成立と系譜

平繁盛の息子であり、平貞盛の養子となった平維幹(維幹)が、常陸国筑波郡多気において多気権大夫と称したことがその起源とされています。維幹の孫である重幹の息子の代にかけて、常陸平氏の諸氏が形成されていきました。

多気の地名は長男の致幹が継承し、彼が実際に多気の地に定着したことから、致幹を実質的な多気氏の祖とする見方も存在します。致幹は『後三年合戦記』などの古記録において「多気権守宗基」という名で登場しています。

鎌倉時代における動向と失脚

治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した当初、多気氏をはじめとする常陸平氏の諸氏は、同族の越後平氏や姻戚関係にあった佐竹氏とともに敵対する姿勢を示しました。しかし、佐竹征伐を経て、最終的には源頼朝に帰順しました。

鎌倉幕府成立後の建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りの直後である同年6月に、当主であった多気義幹は八田知家による中傷を受け失脚しました(『吾妻鏡』)。これにより、常陸平氏の惣領家とされていた大掾氏の座は、同族である吉田氏の分家の馬場資幹が継承することになりました(馬場大掾家)。一方で、下妻氏や東条氏、真壁氏などの分家は、佐竹氏の家臣として存続しました。

近年の研究成果

近年の歴史研究においては、馬場資幹が世襲による常陸大掾氏の祖であり、それ以前の常陸平氏が代々大掾の地位を継承していたという事実はないと指摘されています。常陸国府の発給文書に本来あるべき大掾の署判は、資幹以前には確認されていません。

さらに、常陸平氏そのものが12世紀の段階でいったん解体されており、鎌倉幕府の成立期に再建されるまで明確な惣領は存在しなかったとする見解が示されています。この説に従えば、この時期の多気氏は常陸平氏系の武士のなかで最有力な家ではあったものの、常陸平氏全体の惣領や大掾の地位にあったわけではないとされており、致幹以降の多気氏を「多気大掾家」と呼ぶことについては慎重な見解がなされています。

よくある質問

多気氏の祖は誰ですか?
平繁盛の息子であり、平貞盛の養子となった平維幹が多気を称したことに始まります。また、実際に多気の地に定着した長男の致幹を実質的な祖とする見方もあります。
多気氏が失脚した経緯は何ですか?
鎌倉幕府成立後の建久4年(1193年)6月、富士の巻狩りの直後に、当時の当主であった多気義幹が八田知家の中傷を受けて失脚しました。
多気氏の没落後、一族はどうなりましたか?
常陸平氏の惣領家の座は馬場資幹が継承しましたが、下妻氏、東条氏、真壁氏などの分家は佐竹氏の家臣として存続しました。

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常陸平氏源頼朝八田知家吾妻鏡

参考文献

  • 高橋修編『常陸平氏』戎光祥出版〈中世関東武士の研究;第16巻〉、2015年6月。
  • 丹羽基二『姓氏: 姓氏研究の決定版』秋田書店、1970年7月。