歴史的インフラとしての玉川上水の構造と沿革

📌 主なポイント
- ✓玉川上水は1653年(承応2年)に着工され、同年11月に羽村から四谷大木戸間が開通した。
- ✓工事の総奉行は松平信綱、設計技師は安松金右衛門、工事請負人は玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が務めた。
- ✓1986年(昭和61年)からは東京都の「清流復活事業」により、中流部において再生水の通水が再開されている。
玉川上水(たまがわじょうすい)は、江戸時代前期に江戸市中への飲料水供給を目的として建設された上水道であり、いわゆる「江戸の六上水」の一つに数えられる。多摩川の羽村から現在の東京都新宿区四谷までを結び、武蔵野台地を横断する全長約43キロメートルの水路として計画・施工された。現在でも一部の区間は東京都水道局の現役の水道施設として活用されており、その歴史的価値から国の史跡に指定されている。
開削の経緯と工事の推移
江戸幕府は、拡大する江戸市中の飲料水不足を解消するため、1652年(承応元年)11月に多摩川からの上水開削を計画した。工事の総奉行には老中で川越藩主の松平信綱が就任し、水道奉行には伊奈忠治(没後は忠克)が任命された。実際の工事は、庄右衛門・清右衛門の兄弟(のちに玉川姓を許され玉川兄弟と称される)が請け負った。
工事は1653年(承応2年)の正月頃に幕府からの命を受け、同年4月4日に着工された。羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったことや、関東ローム層の「水喰土(みずくらいど)」と呼ばれる浸透性の高い地質に阻まれ、当初の取水地点である日野や福生での工事は難航した。こうした技術的困難を克服するため、総奉行・松平信綱は家臣である川越藩士の安松金右衛門を設計技師に起用した。安松が立案した第3案(羽村から堤を築いて取水する方式)を採用したことで工事は進展したものの、巨額の工費がかかり、高井戸まで掘削した段階で幕府から支給された資金が底をついた。そのため、玉川兄弟は私財を投じて工事を継続し、着工から約8カ月後の1653年11月15日に羽村・四谷大木戸間の本線を開通させた。その後、1654年(承応3年)6月から江戸市中への通水が開始された。
流路の構造と管理
羽村取水堰で多摩川から取り入れられた水は、武蔵野台地の尾根筋を選んで東へ流下した。羽村市から四谷大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであり、四谷大木戸に設置された「水番所(水番屋)」を経て地下の木樋や石樋を通じて江戸市中へ分配された。また、1722年(享保7年)以降の新田開発に伴い、野火止用水や千川上水などの分水が開削され、武蔵野地域の農業生産にも大きく寄与した。
上水の水質を保全するため、幕府は厳格な管理体制を敷いた。水路の両側幅3間の範囲においては、樹木の伐採、草刈り、魚の捕獲、水浴び、洗濯、ごみの投棄などが厳禁とされ、その旨を記した高札が立てられた。羽村や代田村、四谷大木戸には水番所が置かれ、水番人が常駐して水質の維持やごみの除去にあたった。
現在の流路と利用状況
現在の玉川上水は、その保存状態や利用実態に応じていくつかの区間に分けることができる。
- 上流部(羽村取水堰から小平監視所まで):多摩川から直接取水を行っており、江戸時代と同様に豊富な水量が流れている。取水された水の一部は導水管を通じて村山貯水池や山口貯水池へ送られ、東村山浄水場を経て水道用水の原水として利用されている。
- 中流部(小平監視所から浅間橋まで):1965年(昭和40年)の淀橋浄水場廃止に伴い一時は送水が停止されたが、1986年(昭和61年)に東京都の「清流復活事業」により下水再生水を利用した通水が再開された。豊かな樹木に囲まれた散策路としても親しまれている。
- 下流部(浅間橋以降):大部分が暗渠化されており、道路の下を通る区間や、緑道・公園として整備されている区間が存在する。
上水の桜
玉川上水の堤には、花見客に堤を踏み固めてもらうことや、桜の花びらが水質を浄化するという当時の俗信を背景に、多くのヤマザクラが植えられた。特に「小金井の桜」は江戸時代から多くの行楽客を集める名所として知られ、大正13年には国の名勝に指定された。
よくある質問
玉川上水はいつ誰によって作られましたか?
玉川上水が作られた目的は何ですか?
現在の玉川上水には水が流れていますか?
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参考文献
- 福生市立図書館編『玉川上水を"玉川上水起元並野火留分水口之訳書"で調べる(一)』
- 渡部一輝による玉川上水関連資料・研究
- 東京都水道局発行の歴史資料および広報資料