日本の政治家

寺島宗則:明治期の外交官・政治家

寺島宗則:明治期の外交官・政治家
明治時代の外交官・政治家である寺島宗則の生涯、外交政策、および近代日本への貢献について解説します。

📌 主なポイント

  • 1832年、薩摩国出水郡に生まれる。
  • 明治政府の第4代外務卿として条約改正交渉を主導した。
  • 枢密院副議長を務め、帝国議会への発議権付与を主張した。

寺島宗則(1832年6月21日 - 1893年6月6日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本の外交官、政治家です。薩摩藩士として生まれ、蘭学や英学を修めた後、明治政府において外務卿や枢密院副議長などの要職を歴任しました。

生い立ちと蘭学・英学の習得

天保3年(1832年)、薩摩国出水郷(現在の鹿児島県阿久根市)に生まれました。幼名は徳太郎。5歳の時に蘭方医である松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学びました。その後、江戸で伊東玄朴や川本幸民らに師事し、蕃書調所の教授手伝を務めるなど、当時の日本における最先端の西洋知識を吸収しました。安政年間には英語の独学を始め、その語学力は後の外交官としてのキャリアの礎となりました。

蘭方医として「松木弘安」と名乗ったころの寺島宗則
蘭方医として「松木弘安」と名乗ったころの寺島宗則

幕末の外交活動

文久2年(1862年)、幕府の第1次遣欧使節に通訳兼医師として同行し、欧州の情勢を視察しました。この渡欧を通じて、国際社会における英語の重要性を痛感し、英学派へと転向しました。慶応元年(1865年)には薩摩藩の遣英使節団の一員として再び渡欧し、外交交渉の経験を積みました。

慶応年間薩藩留学生
慶応年間薩藩留学生(後列中央付近が寺島宗則)

明治政府での活躍

明治維新後、その外交手腕を買われて明治政府に登用されました。明治6年(1873年)には外務卿に就任し、関税自主権の回復を目指して条約改正交渉に尽力しました。また、文部卿や元老院議長、駐米公使などを歴任し、近代国家としての日本の基盤作りに貢献しました。明治22年(1889年)の枢密院における憲法制定会議では、帝国議会への発議権付与を強く主張し、その実現に寄与しました。

1880年頃の寺島宗則
1880年頃の寺島宗則

晩年と評価

明治26年(1893年)に60歳で死去。その功績は高く評価されており、鹿児島中央駅前には薩摩藩英国留学生の像『若き薩摩の群像』の一人として銅像が設置されています。

若き薩摩の群像
若き薩摩の群像
妻の寺島茂登子
妻の寺島茂登子

よくある質問

寺島宗則の別名はありますか?
元は松木弘安と名乗っていました。
寺島宗則はどのような外交活動を行いましたか?
幕末には遣欧使節団の通訳として渡欧し、明治政府では外務卿として条約改正交渉やハワイ王国との通商条約締結に関わりました。
寺島宗則の墓所はどこにありますか?
東京都品川区の海晏寺にあります。

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参考文献

  • 犬塚孝明『寺島宗則』吉川弘文館、1990年。
  • 『官報』第2982号(1893年6月9日)「故寺島枢密顧問官履歴」。
  • 薩摩藩英国留学生記念館「薩摩藩英国留学生の歴史」。