寺内正毅の生涯と政治的足跡

📌 主なポイント
- ✓1852年、周防国(現:山口県)に長州藩士の三男として生まれた。
- ✓西南戦争の田原坂の戦いで負傷し、右手の自由を失った。
- ✓第1次桂内閣などで長期にわたり陸軍大臣を務め、日露戦争を支えた。
- ✓日韓併合後に初代朝鮮総督を務めた。
- ✓大正5年に内閣総理大臣に就任し、外相や蔵相を兼任した。
寺内 正毅(てらうち まさたけ、嘉永5年閏2月5日〈1852年3月25日〉 - 大正8年〈1919年〉11月3日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての最終階級は元帥陸軍大将。栄典は従一位大勲位功一級伯爵。
生涯
生い立ちと軍歴の始まり
嘉永5年(1852年)、周防国吉敷郡平井村(現:山口県山口市)にて長州藩士・宇多田正輔の三男として生まれた。出生名は宇多田寿三郎。のちに母の弟にあたる寺内勘右衛門の養嗣子となる。
15歳のときに四境戦争に従軍し、その後も戊辰戦争や箱館戦争に転戦した。明治初期に陸軍に入り、陸軍戸山学校を経てフランスへ留学するなど軍政や軍教育の分野でキャリアを積んだ。明治10年(1877年)の西南戦争では田原坂の戦いで銃撃を受けて負傷し、右手の自由を失ったため、以降は実戦指揮を離れ軍政の中枢を歩むこととなった。
陸軍大臣としての活躍
日清戦争では大本営運輸通信長官を務め、明治33年(1900年)の義和団の乱の際にも現地に赴いた。第1次桂内閣で陸軍大臣に就任して以降、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸相を務め、日露戦争の勝利に貢献した。
韓国統監と初代朝鮮総督
明治43年(1910年)5月、伊藤博文暗殺後の曾禰荒助の後を受け、陸相を兼ねたまま第3代韓国統監に就任した。同年8月の日韓併合を経て朝鮮総督府が設置されると、初代朝鮮総督に就任した。憲兵警察制度の導入などによる治安維持政策は、のちに武断政治とも評価された。
内閣総理大臣の就任
大正5年(1916年)に元帥府に列せられ、同年10月に朝鮮総督を辞任して第18代内閣総理大臣に就任した。外務大臣や大蔵大臣も兼任し、第一次世界大戦の最中においてシベリア出兵などを宣言したが、米騒動の発生による責任をとり、大正7年(1918年)9月に内閣総辞職した。大正8年(1919年)11月3日、心臓肥大症および糖尿病の悪化により薨去した。享年67。