日本の歴史人物

徳川慶喜:幕末の動乱を駆け抜けた最後の征夷大将軍

徳川慶喜:幕末の動乱を駆け抜けた最後の征夷大将軍
江戸幕府第15代将軍であり、歴史上最後の征夷大将軍となった徳川慶喜の生涯、政治的足跡、および明治以降の動向について解説する百科事典記事です。

📌 主なポイント

  • 天保8年9月29日(1837年10月28日)に水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生した。
  • 江戸幕府第15代将軍であり、歴史上最後の征夷大将軍を務めた。
  • 慶応3年(1867年)に大政奉還を行い、朝廷に政権を返上した。
  • 明治時代には徳川慶喜家を興し、公爵および貴族院議員を務めた。

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍であり、明治時代の日本の政治家、華族。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。歴史上最後の征夷大将軍として知られる。

生涯

幼年期と一橋家の相続

天保8年9月29日(1837年10月28日)、水戸藩主・徳川斉昭の七男として江戸小石川の水戸藩上屋敷で誕生した。母は有栖川宮織仁親王の王女・登美宮吉子女王。幼名は松平七郎麻呂。父・斉昭の教育方針により生後まもなく水戸へ移り、藩校・弘道館などで学問と武術を教授された。

弘化4年(1847年)8月、一橋徳川家の相続を前提として江戸出府を命じられ、同年9月に一橋徳川家を相続した。嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、将軍継嗣問題が浮上すると、一橋派の有力な候補として名前が挙げられるようになった。

将軍後見職と幕政改革

安政5年(1858年)の大老・井伊直弼による裁定で紀州藩主・徳川慶福(のちの徳川家茂)が将軍世嗣となると、慶喜は隠居謹慎を命じられた(安政の大獄)。万延元年(1860年)の桜田門外の変後に謹慎を解除され、文久2年(1862年)には将軍後見職に就任して一橋家を再相続した。松平春嶽らとともに文久の改革を推進し、京都守護職の設置や参勤交代の緩和などを実施した。

将軍職就任と大政奉還

元治元年(1864年)に禁裏御守衛総督に就任し、禁門の変では御所守備軍を自ら指揮した。慶応2年(1866年)に第14代将軍・家茂が薨去した事を受け、同年12月5日(1867年1月10日)に二条城において将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。

将軍就任後、慶喜は朝廷との密接な連携を背景に政権の立て直しを図ったが、慶応3年(1867年)に大政奉還を行い、朝廷へ政権を返上した。

明治以降の動向

王政復古の大号令を経て発生した鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、慶喜は江戸へ逃亡し、のちに恭順の意を示した。維新後は静岡県を経て東京府で暮らし、明治35年(1902年)には徳川慶喜家を興して公爵に叙され、貴族院公爵議員に列した。明治43年(1910年)に七男の慶久へ公爵位を譲って隠居し、大正2年(1913年)11月22日に76歳で薨去した。

よくある質問

徳川慶喜はいつ生まれましたか?
天保8年9月29日(1837年10月28日)に誕生しました。
徳川慶喜は何代目の将軍ですか?
江戸幕府の第15代征夷大将軍であり、歴史上最後の将軍です。
大政奉還を行ったのはいつですか?
慶応3年(1867年)に行われました。

関連記事

徳川斉昭徳川家茂松平春嶽大政奉還鳥羽・伏見の戦い

参考文献

  • 渋沢栄一 『徳川慶喜公伝』 竜門社、1918年。
  • 家近良樹 『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』 講談社選書メチエ、2005年。