東京医学校:明治初期の官立医学教育機関と東京大学医学部の前身

📌 主なポイント
- ✓東京医学校は、現在の東京大学医学部の前身にあたる明治初期の官立医学校である。
- ✓設立当初はイギリス医学を導入していたが、のちにドイツ医学へと教育方針が大きく転換された。
- ✓1877年に東京開成学校と統合され、旧東京大学の設立母体となった。
東京医学校(とうきょういがっこう)は、明治時代初期に東京府に設立された官立の高等教育機関(医学校)であり、現在の東京大学医学部の直接的な前身にあたる組織である。
沿革と組織の変遷
1868年5月(慶応4年4月)、明治新政府が旧江戸幕府の医学所を接収したことを発端とする。同年6月には「医学校」と改称され、翌1869年に官立の大病院と統合されて「医学校兼病院」となった。その後、大学校の分局を経て、1869年12月(明治2年12月)に「大学東校」へと改称された。
明治4年(1871年)の文部省発足に伴い「東校」となり、1872年(明治5年)の学制頒布により「第一大学区医学校」、1874年(明治7年)5月に「東京医学校」へと改称された。1877年(明治10年)4月には東京開成学校と統合され、旧制(旧)東京大学の設立母体となった。
イギリス医学からドイツ医学への転換
設立当初は、戊辰戦争などで医療活動に貢献したイギリス公使館付医師ウィリアム・ウィリスを教師に迎え、臨床を重視するイギリス医学を中心に教育が行われていた。しかし、新政府の医学取調掛であった相良知安や岩佐純らが、研究活動や基礎医学を重視するドイツ医学の採用を強く主張した。
長崎派の蘭方医学の流れをくむ他の幹部や、大学南校教師フルベッキの助言なども影響し、最終的に大学東校ではドイツ医学の採用が決定された。これに伴い、ウィリスは解任され、のちに鹿児島医学校へ赴任した。一方、大学東校にはドイツ人軍医のミュラーやホフマンが招聘され、ドイツの医科大学をモデルとした組織改革が進められた。
校地の変遷
当初の校地は旧医学所から継承した下谷御徒町にあったが、のちに神田和泉町へ移転した。さらに広い用地を求めて上野への移転計画が進められたものの頓挫し、最終的に本郷本富士町の加賀藩上屋敷跡(現在の東京大学本郷キャンパスの敷地)が提供され、1876年に移転が行われた。
本郷移転時に新築された擬洋風建築の東京医学校本館は、1923年の関東大震災の被害を免れた。その後、小石川植物園へ移築され、東京大学総合研究博物館の小石川分館として使用されている。
