日本の歴史

明治期における北海道の警備と開拓を担った屯田兵制度の歴史

明治期における北海道の警備と開拓を担った屯田兵制度の歴史
明治時代に北海道の警備と開拓を目的として設置された屯田兵制度の歴史、組織の変遷、生活環境、そして西南戦争や日露戦争における戦歴について解説します。

📌 主なポイント

  • 屯田兵制度は1874年(明治7年)に制定され、1875年(明治8年)に札幌郊外の琴似兵村への入地で開始された。
  • 初期は士族中心の募集であったが、1891年に身分制限が撤廃され平民層も参加するようになった。
  • 屯田兵は西南戦争、日清戦争、日露戦争の各戦争に動員され、特に日露戦争では旅順攻囲戦などに参加した。
  • 1904年(明治37年)に屯田兵条例が廃止され、制度はその歴史的幕を閉じた。

屯田兵(とんでんへい)は、明治時代に北海道(道央以北・以東)の北方警備と開拓を並行して行なうために設置された兵士およびその部隊である。1874年(明治7年)に制度が設けられ、翌年から実際の入植が開始されたのち、1904年(明治37年)に廃止された。

制度の創設背景と導入

北海道における屯田制の構想は明治初年からさまざまな方面で提唱されていた。開拓次官であった黒田清隆は、北方における兵備の必要性と財政負担の軽減を考慮し、1873年11月に太政官へ屯田制の採用を建議した。黒田は、主に旧松前藩や東北諸藩の困窮した士族を活用することを想定していた。

太政官はこの提案に同意し、1874年(明治7年)に屯田兵例則を制定した。これに基づき、1875年(明治8年)5月に札幌郊外の琴似兵村へ最初の入地が行われ、屯田制が本格的に開始された。

前期屯田と後期屯田の展開

初期の屯田兵募集は士族に制限されていたが、1891年(明治24年)に身分制限が正式に撤廃され、平民層からの参加も一般化した。これにより、制度は前期と後期に大別される。

琴似や山鼻など札幌周辺の石狩地方から始まった入植は、次第に内陸部や道東部へと拡大した。開拓使の廃止後、永山武四郎らがロシア帝国のコサック兵制度などを参考にしながら改革を推進し、1888年(明治21年)以降は上川や空知といった地域に重点が置かれた。後期屯田では、これまでの経験の蓄積や農民出身者の多さなどから、好成績を収めることになった。

生活と任務

屯田兵は家族とともに移住し、あらかじめ規定された規格の家屋である「兵屋」と、未開拓の土地を割り当てられた。兵村は一般的な村落とは異なり、軍事組織としての規律を持つ独立したコミュニティとして機能した。

日々の生活において、屯田兵は軍事訓練と農作業に従事したほか、道路や水路の建設、地域の警備、災害救援などに動員された。また、寒冷地に適した農作物の栽培や品種改良の試験も重要な任務であった。

主な戦歴

屯田兵は、明治時代に発生した主要な対外・国内戦争に動員された。

  • 西南戦争(1877年): 屯田兵の全力が動員され、九州の人吉方面への追撃戦や警備に参加した。
  • 日清戦争(1895年): 開戦当初は国内に留まったが、のちに臨時第7師団として編成されて出動し、講和成立に伴い復員した。
  • 日露戦争(1904年〜1906年): すでに現役を退いていたものの、日露戦争の勃発に伴い召集され、旭川を本拠地とする第7師団の主力として旅順攻囲戦や奉天会戦に参加し、過酷な戦闘を経験した。

屯田兵制度の廃止

北海道の開拓が進展し、大規模な入植に適した土地が減少したこと、また北海道の人口増加に伴い通常の徴兵制による兵員確保が可能になったことから、新しい兵村の設置は1899年(明治32年)の上川および士別への入植をもって終了した。そして、最後の入植者が後備役に入った1904年(明治37年)に屯田兵制度は廃止された。

よくある質問

屯田兵とはどのような人たちですか?
明治時代に北海道の警備と開拓を同時に担うため、兵士とその家族によって組織された部隊およびその人員のことです。
屯田兵の制度はいつ始まり、いつ終わりましたか?
制度は1874年(明治7年)に設けられ、1875年の琴似兵村への入地から始まり、1904年(明治37年)に廃止されました。
屯田兵はどのような戦争に参加しましたか?
1877年の西南戦争、1895年の日清戦争、および1904年から始まった日露戦争に参加しました。

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参考文献

札幌市教育委員会『屯田兵』(さっぽろ文庫)
北海道『新北海道史』第3巻
『官報』第5327号、明治34年4月10日