鳥尾小弥太:幕末から明治を生きた軍人・政治家

📌 主なポイント
- ✓1848年、長州藩士の長男として誕生。
- ✓戊辰戦争では鳥尾隊を組織し、各地を転戦した。
- ✓陸軍中将まで昇進したが、山縣有朋ら主流派と政治的に対立した。
- ✓1884年に子爵を授けられた。
- ✓1905年、静岡県熱海にて死去。
鳥尾小弥太(1848年1月10日 - 1905年4月13日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本の陸軍軍人、政治家です。長州藩士の家に生まれ、奇兵隊への参加を経て、明治維新後は陸軍中将まで昇進しました。軍内部では山縣有朋ら主流派と対立し、政治家としては保守的な立場から藩閥政府への批判を展開したことで知られています。
幕末から維新まで
弘化4年(1848年)、長門国萩城下川島村(現・山口県萩市)に長州藩士・中村敬義の長男として誕生しました。幼名は一之助。文久3年(1863年)に奇兵隊に入隊し、この頃から「鳥尾小弥太」を名乗るようになりました。戊辰戦争では建武隊参謀や鳥尾隊を組織し、鳥羽・伏見の戦いから奥州各地を転戦しました。
軍人としての経歴と政治的対立
明治維新後は兵部省に出仕し、陸軍少将、陸軍中将へと昇進しました。西南戦争では後方支援を担当するなど要職を歴任しましたが、陸軍内部の政治的立場の相違から、山縣有朋や大山巌ら主流派と激しく対立しました。明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、反主流派として憲法制定を上奏する建白書に連名し、結果として統計院長へ左遷されるなど、軍の要職から遠ざけられました。
政治姿勢と晩年
鳥尾は貴族院議員や枢密顧問官を務める傍ら、藩閥政府への対抗姿勢を貫きました。儒教的な政治論に基づき、西欧化政策やキリスト教を批判し、保守党中正派を結成するなど国粋主義的な活動を展開しました。また、大日本茶道学会の初代会長を務めるなど文化活動にも関与しました。晩年は職を辞して参禅生活に入り、明治38年(1905年)に静岡県熱海にて57歳で死去しました。
逸話
東京都文京区の「鳥尾坂」は、通行人の難渋を見かねた鳥尾が私財を投じて開いた坂道であり、その名が現在も残っています。また、幕末期には奇兵隊の陣屋近くの地蔵の首を切り落としたという過激な逸話も伝わっています。
よくある質問
鳥尾小弥太はどのような人物ですか?
なぜ山縣有朋らと対立したのですか?
鳥尾坂の由来は何ですか?
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参考文献
- 鳥谷部春汀『明治人物評論・続』博文館、1900年。
- 中根香亭『香亭雅談』吉川弘文館、1920年。
- 松尾正人『廃藩置県』中央公論社、1986年。
- 鳥尾多江『私の足音が聞える』文藝春秋、1985年。