土呂久ヒ素公害の歴史と実態

📌 主なポイント
- ✓宮崎県高千穂町の旧土呂久鉱山で発生したヒ素公害である。
- ✓1920年から1941年、および1955年から1962年の計約30年間にわたり亜ヒ酸の製造等が行われた。
- ✓住民に皮膚の色素異常や角化症、ボーエン病、肺癌などの慢性ヒ素中毒症の症状が多数発生した。
- ✓1975年に始まった住友金属鉱山に対する裁判は、1990年に和解が成立した。
土呂久ヒ素公害(とろくひそこうがい)とは、宮崎県西臼杵郡高千穂町の旧土呂久鉱山周辺において発生した日本の公害問題である。1920年(大正9年)から1941年(昭和16年)まで、および1955年(昭和30年)から1962年(昭和37年)までの計約30年間にわたり亜ヒ酸の製造などが行われ、重金属の粉塵、亜硫酸ガスの飛散、および坑内水による川の汚染が引き起こされた。

歴史的経緯と鉱山の稼働
土呂久における亜ヒ酸の製造は1920年に宮城正一によって始められた。V字型の谷という地形的要因もあり、製造過程で発生する猛烈な煙が滞留しやすい環境にあった。1937年に日中戦争が始まると、亜ヒ酸は毒ガスの原料として瀬戸内海の大久野島の製造所へ送られるなど、軍需とも深く結びついていった。
鉱山は経営母体を変えながら操業を続け、1941年に火災を起こして休山したものの、1955年に中島鉱山として再開された。その後、1959年に経営権が住友金属鉱山へ移り、1962年12月に閉山を迎えた。1967年には住友金属鉱山が最終鉱業権者となった。
被害の発覚と報道
長年にわたり被害は隠匿されがちであったが、住民の健康状態の悪化を背景に、1970年に住民が法務局へ相談に赴いたことを契機に動きが生じた。1971年11月に西日本新聞が公害として告発し、翌1972年1月には朝日新聞なども報道したことで、全国に知られるところとなった。その後、熊本大学や九州大学医学部などによる調査が行われ、健康被害を引き起こした主要因がヒ素および亜硫酸ガスであることが明らかにされた。
臨床所見
慢性ヒ素中毒症による症状は多岐にわたる。皮膚においては斑状・びまん性の色素異常、雨だれ状の白斑、手足の角化症、ボーエン病、皮膚癌などがみられる。さらに、呼吸器症状、耳鼻科症状(鼻中隔穿孔など)、眼科症状、末梢神経症状、内臓癌などが報告されており、長期にわたる医学的調査や検診が継続されてきた。
裁判と和解
1975年12月、被害者らが最終鉱業権者である住友金属鉱山を相手取って宮崎地裁延岡支部に提訴した。1984年3月の地裁での原告勝訴を経て、1990年3月には全面勝訴の判決が出された。同年、原告と被告の間で7項目の和解条項が成立し、見舞金の支払いなどが取り決められた。
よくある質問
土呂久ヒ素公害の原因は何ですか?
どのような健康被害が報告されていますか?
裁判はどのように決着しましたか?
関連記事
参考文献
宮崎県HP「高千穂町土呂久地区における公害健康被害(慢性ヒ素中毒症)について」(2016年)
朝日新聞 1972年1月17日夕刊
堀田宣之 『慢性砒素中毒研究 -症候学的アプローチ-』 (2008)