大正時代の軍事改革:宇垣軍縮の背景と影響

📌 主なポイント
- ✓宇垣軍縮は1925年(大正14年)5月に陸軍大臣・宇垣一成の主導で行われた。
- ✓第13、第15、第17、第18の4個師団が廃止され、約34,000人の将兵が削減された。
- ✓削減により浮いた予算を活用して、戦車連隊や各種軍学校などが新設された。
宇垣軍縮(うがきぐんしゅく)とは、大正時代中期にあたる1925年(大正14年)5月、加藤高明内閣の陸軍大臣であった宇垣一成の主導によって行われた大日本帝国陸軍の軍備整理である。
背景
第一次世界大戦後、世界的な規模で軍縮の気運が高まり、主要国間では海軍力の制限に向けた国際的な協議が活発に行われた。陸軍においても、極東地域における軍事的脅威の減少や、帝国議会からの度重なる歳出削減要求を背景として、山梨半造陸軍大臣のもとで二度にわたる軍備整理(山梨軍縮)が実施されていた。
しかし、政府や国民の間では依然として不十分であるという声が根強く存在した。さらに、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災からの復興財源を捻出する必要性に迫られたことから、1925年(大正14年)5月に第三次軍備整理としての宇垣軍縮が断行されることとなった。当時の陸軍省経理局は三井清一郎主計総監が務めていた。
実施内容
宇垣軍縮では、当時の陸軍全体の近代化と効率化を目指し、大規模な部隊および施設の整理縮小が実行された。一方で、新たな兵科や教育機関の新設も同時に進められている。
廃止された主な部隊・施設
全国で21個存在した師団のうち、以下の4個師団をはじめとする組織が廃止された。
- 第13師団(高田)
- 第15師団(豊橋)
- 第17師団(岡山)
- 第18師団(久留米)
- 連隊区司令部16ヶ所
- 陸軍病院5ヶ所
- 陸軍幼年学校2校
この結果、約34,000人の将兵と6,000頭の軍馬が削減されることとなった。
新設された主な部隊・学校
人員の削減によって浮いた予算を活用し、装備の近代化と専門教育の強化を図るため、以下の組織が新設された。
- 1個戦車連隊(久留米)
- 1個高射砲連隊(浜松)
- 2個飛行連隊(浜松・屏東)
- 1個台湾山砲連隊(台北)
- 陸軍自動車学校(東京)
- 陸軍通信学校(神奈川)
- 陸軍飛行学校(三重、千葉)
影響と評価
山梨軍縮が主に将官のポストを維持したまま師団数を保ったのに対し、宇垣軍縮は4個師団を直接廃止して将官の整理を行うという、より踏み込んだ内容であった。これにより浮いた予算は装備の近代化に向けられたものの、陸軍省予算全体の削減効果は軍縮実施前と比較して1割程度に留まった。
また、一度に多数の将校が退役させられたことや進級が停滞したことは、陸軍内部に大きな衝撃を与えた。これが後の派閥対立や派閥抗争の激化を招いたと指摘されており、のちの日中戦争以降における将校不足の一因にもなったとされる。さらに、宇垣軍縮に反発する勢力が荒木貞夫や真崎甚三郎らのもとに結集したことは、のちの皇道派形成の契機になったとも言われている。
よくある質問
宇垣軍縮が行われた主な理由は何ですか?
宇垣軍縮によってどのくらいの人員が削減されましたか?
宇垣軍縮で新設された主な組織は何ですか?
関連記事
参考文献
『近代戦争慨史 上巻』陸戦学会 P286。
田中隆吉『日本軍閥暗闘史』(7版)中央公論社〈中公文庫〉、1992年、13-18頁。
藤井非三四『帝国陸海軍 人事の闇』光人社NF文庫、207頁。