カナダの歴史
アッパー・カナダの歴史と変遷

1791年から1841年まで存在したイギリスの植民地、アッパー・カナダの歴史、統治機構、米英戦争の影響、およびカナダ連合への統合について解説します。
📌 主なポイント
- ✓アッパー・カナダは1791年の植民地統治法によりケベック植民地から分離して設立された。
- ✓1796年に首都がニューアークからヨーク(現トロント)へ移転された。
- ✓1841年の連合法によりローワー・カナダと合併し、カナダ連合の一部となった。
アッパー・カナダ(Upper Canada)は、1791年から1841年まで現在のカナダ・オンタリオ州南部に存在したイギリスの植民地である。名称の「アッパー」は緯度ではなく、セントローレンス川の上流(海抜が高い地域)に位置することに由来する。

設立と統治
1763年のパリ条約によりイギリス領となったケベック植民地は、1791年の植民地統治法によってアッパー・カナダとローワー・カナダに分割された。この措置は、フランス語圏のローワー・カナダと、王党派アメリカ開拓者やイギリス系移民が中心のアッパー・カナダで、それぞれ異なる法体系や統治機構を維持することを目的としていた。
初代副総督にはジョン・グレイブス・シムコーが就任した。1796年、防衛上の理由から首都はニューアーク(現在のナイアガラオンザレイク)からヨーク(現在のトロント)へ移転された。

米英戦争の影響
1812年から1815年にかけての米英戦争において、アッパー・カナダはアメリカ軍の主要な攻撃目標となった。しかし、アイザック・ブロックらの指揮とイギリス軍の防衛により、植民地は北アメリカにおけるイギリス領として維持された。この戦争は、後の移民政策や地域社会の形成に大きな影響を与えた。
1837年の反乱とカナダ連合
19世紀初頭、植民地の統治を独占する「家族盟約」と呼ばれる寡頭政治層に対し、ウィリアム・ライアン・マッケンジーらが反発を強めた。1837年に発生した武装蜂起は失敗に終わったが、これが契機となり、ダーラム卿による「責任ある政府」の提唱へと繋がった。1841年の連合法により、アッパー・カナダとローワー・カナダは合併してカナダ連合が形成され、アッパー・カナダとしての政体は幕を閉じた。
よくある質問
アッパー・カナダという名前の由来は何ですか?
セントローレンス川の上流(upper)に位置していたことから名付けられました。
アッパー・カナダはいつまで存在しましたか?
1791年から1841年まで存在し、その後カナダ連合の一部となりました。
なぜアッパー・カナダとローワー・カナダに分けられたのですか?
イギリス系移民とフランス語話者の住民が、それぞれの法体系や宗教、文化を維持できるようにするためです。
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参考文献
- Armstrong, Frederick H. Handbook of Upper Canadian Chronology. Dundurn Press, 1985.
- Craig, Gerald M. Upper Canada: the formative years 1784-1841. McClelland and Stewart, 1963.
- McCalla, Douglas. Planting the province: the economic history of Upper Canada 1784-1870. University of Toronto Press, 1993.