ワシリー・カンディンスキー:抽象絵画の開拓者と美術理論の足跡

📌 主なポイント
- ✓ワシリー・カンディンスキーは1866年12月4日にモスクワで生まれた。
- ✓1911年にフランツ・マルクらとともに芸術家グループ「青騎士」を結成した。
- ✓1922年から1933年のバウハウス閉鎖まで教官として勤務した。
ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866年12月4日 - 1944年12月13日)は、ロシア帝国・モスクワ出身の画家であり、美術理論家である。一般に、抽象絵画の創始者の一人として位置づけられ、ドイツやフランスでも活動を展開してのちに両国の国籍を取得した。ガブリエレ・ミュンターのパートナーとしても知られている。

生涯と初期の経歴
モスクワに生まれ、子供時代をオデッサで過ごした。1886年から1892年までモスクワ大学で法律と政治経済を学んだ後、1896年にミュンヘンへ移り、象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックのもとで本格的に絵画の勉強を始めた。1902年にはベルリンの分離派展に出品し、1904年にはパリのサロン・ドートンヌにも作品を出品するなど、活動の幅を広げていった。
青騎士の結成と抽象表現の展開
1909年に新ミュンヘン美術家協会の会長に就任したが、1911年にはフランツ・マルクらとともに同協会を脱退し、芸術家グループ「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター)を結成した。1910年前後から最初の抽象画を手掛け、絵画表現における新たな地平を開いた。代表作である『コンポジション』シリーズはこのドイツ滞在期に制作されている。

当時カンディンスキーと面会した澤木四方吉は、「対象に縛られない、純絵画の本質としての、独立したインテンジイフな生命を齎すような画面を作ろうとするのが自分の願望である」と、その制作姿勢について書き残している。
ロシアへの帰国とバウハウスでの活動
1918年のロシア革命後にモスクワへ戻った。当時のソ連では前衛芸術が革命的なものとして受容されており、カンディンスキーも政治委員などの要職を務めた。しかし、ヨシフ・スターリンの台頭に伴い前衛芸術に対する風当たりが強くなったため、1921年にドイツへ戻る道を選んだ。
1922年からはバウハウスで教官を務め、1933年にナチス・ドイツによってバウハウスが閉鎖されるまで教育と制作に尽力した。

晩年
1941年、フランスがナチス占領下に置かれた後もアメリカへの亡命を拒み続け、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌでその生涯を閉じた。ドイツ国籍を1928年に、フランス国籍を1939年にそれぞれ取得している。