歴史

ヴァイマル共和政:第一次世界大戦後のドイツにおける民主主義体制の成立と終焉

ヴァイマル共和政:第一次世界大戦後のドイツにおける民主主義体制の成立と終焉
第一次世界大戦後の戦間期ドイツに成立したヴァイマル共和政の歴史、ヴァイマル憲法の制定、経済危機、そしてナチス政権の成立に至る過程を解説します。

📌 主なポイント

  • ヴァイマル共和政の正式な国号は「ドイツ国(Deutsches Reich)」であり、首都はベルリンであった。
  • 1919年8月11日に公布されたヴァイマル憲法は、基本的人権の尊重や社会権を定めた先進的な憲法であった。
  • 1933年1月30日のヒトラー内閣成立と同年3月の全権委任法成立により、共和政体制は崩壊した。

ヴァイマル共和政(ヴァイマルきょうわせい、ドイツ語: Weimarer Republik)は、第一次世界大戦敗戦後の戦間期ドイツに存在した共和政体の歴史的名称である。正式な国号は帝政時代から継続してドイツ国(Deutsches Reich、ドイチェス・ライヒ)であり、首都も引き続きベルリンに置かれた。政治体制は1919年8月に制定・公布されたヴァイマル憲法に基づいている。

共和政の成立と革命の動乱

1918年秋、戦局の悪化と国内の厭戦気分を背景にドイツ各地で反乱やストライキが発生した。同年11月9日、首相マクシミリアン・フォン・バーデンが皇帝ヴィルヘルム2世の退位と首相職の譲渡を独断で宣言し、ドイツ社会民主党(SPD)の党首フリードリヒ・エーベルトが政権を引き継いだ。同日午後にはSPDのフィリップ・シャイデマンが群衆の前で共和国樹立を宣言した。

新政府は左派の急進的勢力や労働者・兵士評議会(レーテ)による社会主義革命の動きと対立しながらも、国軍最高幹部との間で連絡網を築き、国家の安定を図った。1919年1月にはベルリンでスパルタクス団などによる武装蜂起(1月蜂起)が発生したが、国防相グスタフ・ノスケが組織した義勇軍(フライコール)などによって鎮圧された。指導者であったローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは同年1月15日に拘引・殺害された。

ヴァイマル憲法の制定

1919年1月19日、男女平等の普通選挙による国民議会選挙が実施された。首都ベルリンの混乱を避けるため、議会はヴァイマル(ワイマール)で開催され、これが「ヴァイマル共和政」の通称の由来となった。制憲国民議会において法学者フーゴー・プロイスらの草案をもとに審議が行われ、1919年8月11日にヴァイマル憲法が公布された。

この憲法は、大統領の強力な権限、連邦制、そして当時としては先進的な基本的人権の尊重や社会権の規定を盛り込んだ極めて民主的なものであったが、のちに緊急事態における権限濫用の温床ともなる条項を含んでいた。

経済的混乱と崩壊

戦後の巨額の賠償金支払いや、アメリカやイギリスなどからの短期資本の導入による経済構造の脆弱性は、1929年の世界大恐慌の発生によって致命的な打撃を与えた。短資の急激な流出に伴い失業者が激増し、社会不安が一気に高まった。

1930年代初頭には議会政治が機能不全に陥り、大統領緊急令を用いた統治が常態化した。連立政権の瓦解と政治的混迷が続く中、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が勢力を拡大し、1933年1月30日にヒトラー内閣が成立。同年3月に成立した全権委任法によって共和政の民主主義体制は実質的に解体され、ナチス・ドイツ体制へと移行した。

よくある質問

ヴァイマル共和政の正式な国号は何ですか?
正式な国号は帝政時代から引き続いて「ドイツ国(Deutsches Reich)」でした。
「ヴァイマル」という名前の由来は何ですか?
1919年の国民議会が首都ベルリンの混乱を避けてヴァイマル(ワイマール)で開催され、そこで憲法が制定されたことに由来します。
ヴァイマル共和政はどのようにして終焉を迎えましたか?
世界恐慌による経済的混乱と政治的混迷のなか、1933年1月にヒトラー内閣が成立し、同年3月の全権委任法によって民主主義体制が解体されました。

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参考文献

成瀬治・山田欣吾・木村靖二 編『ドイツ史 3』山川出版社、1997年。
林健太郎『ワイマル共和国』中公新書、1963年。
エーリッヒ・アイク『ワイマル共和国史 Ⅳ 1931~1933』ぺりかん社、1989年。