ヴィルヘルム・フィルヒナー:ドイツの極地・中央アジア探検家

📌 主なポイント
- ✓ヴィルヘルム・フィルヒナーは1877年9月13日に生まれ、1957年5月7日に没したドイツの探検家である。
- ✓1900年代初頭にパミール高原の馬による横断やチベット探検を成功させ、ユーラシア内陸部の地理的知見を広げた。
- ✓1911年から1912年にかけて第2回ドイツ南極探検隊の指揮を執り、ドイッチュラント号でウェッデル海方面を探検してフィルヒナー棚氷を発見した。
ヴィルヘルム・フィルヒナー(Wilhelm Filchner, 1877年9月13日 - 1957年5月7日)は、ドイツの軍人、地球科学者、そして中央アジアおよび南極の探検家である。

生涯
ミュンヘンで育ったフィルヒナーは、15歳でバイエルン王国陸軍に入隊した。若い頃から未知の地域への関心を強め、21歳の時にロシア帝国への探検旅行に参加したことをきっかけに本格的な探検活動へ踏み出した。1900年には独力でロシア領内への旅行を行い、コーカサス山脈やキルギスタンなどユーラシア内陸部の秘境を踏破した。キルギスのオシを出発し、ワハーン回廊を経て清領のタシュクルガンへ向かうパミール高原の馬による横断を成功させ、バイエルン国内でその名が知られるようになった。1903年から1905年にかけてはチベットへの探検隊を指揮した。
南極探検とドイッチュラント号の航海
中央アジア探検から帰還した後、フィルヒナーは海岸線や内陸部が未解明であった南極大陸への探検計画を立案した。1908年にスピッツベルゲンでの予行演習を経て、1910年3月にベルリンで本格的な南極探検計画を発表した。この計画は、エーリッヒ・フォン・ドリガルスキーによるガウス号探検に続くドイツで2回目の南極探検であり、南極大陸を横断して大陸全体の構造を解明することを主な目的としていた。
1911年5月4日、探検船ドイッチュラント号はブレーマーハーフェンを出港して南極へ向かった。ウェッデル海に入った探検隊は、過去の航海者よりもさらに南へ進み、コーツランド西端の海岸を発見してバイエルン摂政ルイトポルトにちなみ「ルイトポルド・コースト」と命名した。さらにその西側に広がる巨大な棚氷を発見し、当初は皇帝ヴィルヘルム2世にちなんで命名されたが、のちに「フィルヒナー棚氷」と呼ばれるようになった。
しかし、棚氷上に設営した越冬基地が氷の崩落によって失われ、1912年3月にはドイッチュラント号自体も流氷に閉じ込められた。船は同年12月まで氷から脱出できず、ウェッデル海での長期漂流を余儀なくされた。その後、船は氷から抜け出してサウス・ジョージア島へ帰還したが、南極大陸横断という当初の目的は果たせなかった。
その後の活動と晩年
南極からの帰国後は再びアジア内陸部の探検に注力し、ネパールやチベットへ多数の遠征を行った。1926年から1928年にかけて青海湖周辺を探検し、1934年から1937年にはドイツ政府によるチベット探検隊を指揮した。第二次世界大戦が本格化した1940年以降、インドにおいて敵国人として収容所に抑留された。戦後はインドのマハーラーシュトラ州プーナに居住したのちヨーロッパへ戻り、スイスのチューリッヒで生涯を閉じた。