労働者・農民赤軍の歴史と軍事理論

📌 主なポイント
- ✓労働者・農民赤軍は1918年1月にウラジーミル・レーニン率いるソビエト政権によって創設された。
- ✓1936年に公布された赤軍野外教令では、機械化部隊や航空部隊を統合した「縦深攻撃ドクトリン」が規定された。
- ✓1946年2月25日に再組織され、名称がソビエト連邦軍へと引き継がれた。
労働者・農民赤軍(ろうどうしゃ・のうみんせきぐん、ロシア語: Рабоче-крестьянская Красная армия、略称:RKKA)は、1918年1月から1946年2月までロシア帝国およびソビエト連邦に存在した軍隊であり、後のソビエト連邦軍の前身にあたる組織である。
創設とロシア内戦期
ウラジーミル・レーニンを首班とする人民委員会議は1918年1月28日(ロシア暦1月15日)、既存の赤衛隊を基盤として労働者・農民赤軍の創設を布告した。同年2月23日には、第一次世界大戦の戦闘継続中においてペトログラードへ進攻するドイツ軍に対して赤軍が抵抗を示した(後にこの日はソ連の陸海軍記念日となった)。しかし、ドイツ軍の優位を覆すことはできず、ソビエト政権は1918年3月3日にブレスト=リトフスク条約を締結して第一次世界大戦からの離脱を余儀なくされた。
大戦離脱後も反革命軍(白衛軍)や諸外国の介入によるロシア内戦が継続する中、1918年9月から1925年1月にかけて軍事人民委員を務めたレフ・トロツキーが赤軍の初期組織化と指導を担った。初期の赤軍は志願制をとり、階級や階級章が存在せず、将校は民主的な選挙によって選ばれていた。しかし内戦の激化に伴い、旧ロシア帝国軍の将校が多数採用されて軍の中核を担うようになり、同時にすべての部隊に政治将校が配置されて統制が図られた。
軍事理論と近代化の展開
ロシア内戦終結後の1920年代から1930年代にかけて、赤軍は近代戦に対応するための独自の軍事理論の構築を進めた。旧ロシア帝国軍の将校であったアレクサンドル・スヴェチンは、戦術と戦略の間に位置する概念として作戦術を提唱し、連続的な作戦行動によって戦略的勝利を収める理論を体系化した。
さらに、ミハイル・トゥハチェフスキーやヴラジーミル・トリアンダフィーロフらを中心として、敵の防御縦深全体を同時に麻痺・突破することを目的とした縦深攻撃ドクトリンが発展した。この理論では、大規模な機械化部隊、砲兵、航空部隊、空挺部隊を一体化した諸兵科連合の運用が重視された。1920年代末から機械化軍団の創設が推進され、1936年には赤軍野外教令として正式に公布された。
ドイツとの軍事交流
ヴェルサイユ条約によって軍事的な制限を受けていたドイツの国軍(ライヒスヴェーア)とソビエト連邦は、1922年4月のラパッロ条約締結を契機に秘密裏の軍事交流を開始した。ソ連領内にはドイツ向けの兵器工場や演習場が設置され、戦車や航空機の共同開発、および戦術の検証が行われた。この協力関係は赤軍の近代化や機動戦理論の形成に大きな影響を与えたが、1933年のヒトラー政権成立によって終焉を迎えた。
規模の推移
1941年6月の独ソ戦開戦時の赤軍の兵員数は約570万人であったが、大祖国戦争(独ソ戦)の過程で大規模な動員が実施され、後方部隊も含めると一時的に1,500万人から2,000万人の規模に達した。第二次世界大戦終結後は縮小に向かい、1946年2月25日の組織改編に伴いソビエト連邦軍へと統合された。
よくある質問
労働者・農民赤軍はいつ創設されましたか?
赤軍の縦深攻撃ドクトリンとは何ですか?
赤軍はその後どうなりましたか?
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参考文献
- ハリエット・F・スコット,ウィリアム・F・スコット『ソ連軍 思想・機構・実力』乾一宇 訳、p.101
- ソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所『第二次世界大戦史 1』弘文堂、pp.156-168