明治初期の疑獄事件:山城屋事件の全容
📌 主なポイント
- ✓山城屋事件は1872年(明治5年)に発覚した、陸軍省の公金流用を巡る疑獄事件である。
- ✓御用商人・山城屋和助が陸軍省から借り入れた公金は、生糸取引の失敗により返済不能となった。
- ✓事件の責任を問われた山縣有朋は一時的に辞職したが、後に西郷隆盛らの推薦により陸軍卿として復帰した。
- ✓事件の収拾過程で、西郷隆盛が陸軍元帥兼近衛都督に就任するなど、政府内の権力構造に変化が生じた。
山城屋事件(やましろやじけん)は、1872年(明治5年)に発生した明治政府初期の疑獄事件である。留守政府体制下において、陸軍省の公金が御用商人に不正に貸し付けられていたことが発覚し、当時の陸軍大輔であった山縣有朋の政治的地位を揺るがす事態へと発展した。
事件の背景と経緯
山城屋和助は、長州藩出身で奇兵隊時代に山縣有朋の部下であった縁から、明治政府の御用商人として陸軍省に出入りしていた。当時、陸軍省は保管していた現銀の運用を目的として、山城屋に対して多額の公金を貸し付けていた。しかし、山城屋がこの資金を投じたヨーロッパでの生糸取引で巨額の損失を出したことで、返済が不可能となった。
陸軍省会計監督の種田政明が調査を行った結果、抵当なしに多額の公金が貸し出されていた事実が判明した。この事実は薩摩系の軍人らによる山縣有朋への激しい追及を招くこととなった。
政治的影響と山縣有朋の動向
1872年6月、山縣有朋は陸軍大輔および近衛都督の辞表を提出した。この事態に対し、巡幸中であった明治天皇は西郷隆盛らに帰京を命じ、事態の収拾を図った。西郷隆盛は薩摩系軍人と山縣の調停を行い、山縣が近衛都督を辞任し、西郷自身が陸軍元帥兼近衛都督に就任することで妥協が成立した。
山城屋和助は1872年11月29日に陸軍省内で割腹自殺を遂げた。事件関係書類が焼却されたため、真相の全容解明は困難となったが、その後も司法省による追及は続いた。山縣有朋は一時的に辞職に追い込まれたものの、政府上層部や西郷隆盛らの擁護もあり、1873年(明治6年)には陸軍卿として政府に復帰した。
司法省の関与と政局への影響
本事件は、当時の司法卿であった江藤新平が司法省の権限強化を目指す中で、薩摩系軍人による私的な事務所封鎖を制止し、司法省による直接捜査を指示したことでも知られる。また、この事件を巡る対応は、岩倉使節団派遣中の留守政府内における対立を深め、後の明治六年政変に至る政治的亀裂の一因ともなった。
よくある質問
山城屋事件とはどのような事件ですか?
山縣有朋はなぜ辞職に追い込まれたのですか?
山城屋和助はその後どうなりましたか?
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参考文献
- 伊藤之雄『山県有朋―愚直な権力者の生涯』文藝春秋、2009年。
- 毛利敏彦『明治六年政変』中公新書、1979年。
- 大森徹「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」『金融研究』日本銀行金融研究所、2001年。
- 井上清『日本の歴史 20 明治維新』中央公論社、1966年。