柳宗悦の生涯と民藝運動の展開

📌 主なポイント
- ✓柳宗悦は1889年(明治22年)に東京で生まれた美術評論家・宗教哲学者である。
- ✓文芸誌『白樺』の同人として活動し、西洋近代美術やウィリアム・ブレイクを日本に紹介した。
- ✓名もなき職人による日用雑器に美しさを見出し、「民藝運動」を主唱した。
- ✓1936年に東京・駒場に日本民藝館を創設し、初代館長を務めた。
柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年〈明治22年〉3月21日 - 1961年〈昭和36年〉5月3日)は、日本の美術評論家、宗教哲学者、思想家であり、日用品の中に美しさを見出す民藝運動の主唱者です。名前は「そうえつ」とも読まれ、英語圏などでは「Soetsu」の表記も広く用いられています。
生涯と教育
1889年、東京府東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)に、元海軍少将で元老院議官の柳楢悦の三男として生まれました。幼少期に父を亡くした後は母に育てられ、学習院の初等学科から高等科にかけて学びました。学習院時代には武者小路実篤や志賀直哉らと親交を結び、のちに文芸誌『白樺』の創刊に参加しました。高等科卒業時には明治天皇から恩賜の銀時計を授与されるなど優等生として知られていました。
その後、東京帝国大学文科大学に進学し、人生問題に対する科学的なアプローチを期待して心理学を専攻しました。しかし、実験心理学や当時のアカデミズムに対する疑問を抱くようになり、西洋の思想家ウィリアム・ブレイクの「直観」を重視する哲学や、東洋の宗教思想に深く傾倒していきました。1914年には声楽家の中島兼子と結婚し、千葉県我孫子市へ転居しました。
民藝運動の展開
1916年以降、朝鮮半島をたびたび訪れた柳は、古陶磁器などの朝鮮工芸に魅了され、その独自の美意識に目覚めました。また、全国各地の無名職人による日用雑器(民藝品)の中に深い美を見出し、1925年(大正14年)には「民藝」という言葉を造語しました。陶芸家の富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司らと共に日本民藝美術館の設立を提唱し、1936年には東京・駒場に日本民藝館を創設して初代館長に就任しました。さらに、沖縄や台湾などの文化保護・紹介にも尽力しました。
晩年と評価
戦後も執筆活動や工芸の調査を続け、1957年には「民藝理論の確立・日本民藝館の設立・民藝運動の実践の業績」により文化功労者に顕彰されました。1961年4月29日、日本民藝館での談話中に脳出血で倒れ、同年5月3日に72歳で逝去しました。