萬朝報:明治・大正期の大衆紙
📌 主なポイント
- ✓1892年(明治25年)11月1日に黒岩涙香によって創刊された。
- ✓「蓄妾実例」などの暴露記事で知られ、三面記事の語源となった。
- ✓1940年(昭和15年)10月1日、新聞統制により東京毎夕新聞に吸収され廃刊した。
萬朝報(よろずちょうほう)は、1892年(明治25年)から1940年(昭和15年)まで発行されていた日本の日刊新聞である。創業者である黒岩涙香の指導のもと、大衆紙として独自の地位を築き、明治から大正期の日本社会に多大な影響を与えた。
創刊と発展
1892年11月1日、都新聞の主筆を辞した黒岩涙香によって東京で創刊された。紙名は「よろず重宝」という言葉の洒落に由来する。翌1893年には山田藤吉郎が経営していた『絵入自由新聞』と合併し、黒岩が編集、山田が経営を担当する体制が整った。同紙は「永世無休」を掲げ、「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」という方針のもと、低価格で販売されたことで大衆の支持を集め、1899年には東京で発行部数第1位を記録するに至った。
ゴシップ報道と社会への影響
萬朝報は、日本におけるゴシップ報道の先駆的存在として知られる。特に1898年に連載された「蓄妾実例」は、華族や官吏、商店主らの妾の存在を実名で暴露する内容であり、当時のプライバシー観念を反映しつつも大きな反響を呼んだ。また、紙面の第三面に扇情的な社会記事を掲載したことから、今日の「三面記事」という言葉の語源になったとも言われている。黒岩自身による海外小説の翻案連載や、家庭欄の充実も読者層の拡大に寄与した。
社会改良と内村鑑三らの退社
1901年、同紙は「理想団」を結成し、労働問題や女性問題など社会改良を掲げる論調を強めた。しかし、日露戦争開戦をめぐり社論が非戦論から主戦論へと転換したことで、社内の非戦論者であった内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らが退社する事態となった。彼らは1903年に『平民新聞』を創刊し、萬朝報とは異なる道を歩むこととなった。
凋落と廃刊
1911年の幸徳事件(大逆事件)による幸徳秋水の死刑執行や、1920年の黒岩涙香の死去を経て、萬朝報の経営は次第に傾いた。関東大震災後には経営難に陥ったが、1928年に専務取締役社長に就任した長谷川善治が講談社の野間清治の支援を得るなどして存続を図った。しかし、1940年10月1日、戦時下の新聞統制により『東京毎夕新聞』に吸収される形で廃刊となり、約半世紀にわたる歴史に幕を下ろした。
よくある質問
萬朝報の紙名の由来は何ですか?
なぜ「三面記事」の語源と言われているのですか?
萬朝報が廃刊した理由は何ですか?
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参考文献
- 万朝報(コトバンク)
- 黒岩涙香『弊風一斑 蓄妾の実例』(社会思想社、1992年)
- 小野秀雄『新聞研究五十年』(毎日新聞社、1971年)