歴史
ツィンマーヴァルト運動の歴史的背景と展開
第一次世界大戦中に第二インターナショナルの少数派社会主義者によって展開された国際的反戦運動「ツィンマーヴァルト運動」の歴史、会議の経緯、影響について解説します。
📌 主なポイント
- ✓ツィンマーヴァルト運動は、第一次世界大戦中の1915年以降に第二インターナショナルの反戦少数派によって展開された。
- ✓1915年9月にスイスのツィンマーヴァルトで開催された最初の会議には、ロシアのレーニンやトロツキーらが参加した。
- ✓会議では「城内平和」への反対と無併合・無賠償の講和を掲げる「ツィンマーヴァルト宣言」が採択された。
- ✓運動は最終的に1919年3月に発足したコミンテルン(第三インターナショナル)へ合流する形で解消された。
ツィンマーヴァルト運動(ツィンマーヴァルトうんどう、独: Zimmerwalder Bewegung)とは、第一次世界大戦の勃発に伴い分裂した第二インターナショナルに参加していた社会主義者のうち、反戦を掲げる少数派によって1915年以降に展開された国際的反戦運動である。
概要と背景
1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、第二インターナショナルの多数派は「城内平和」政策を掲げて自国政府の戦争政策を支持し、国際的な連帯体制は大きな分裂に陥った。これに対し、中立国出身の社会主義者らを中心に永世中立国スイスのツィンマーヴァルト村で会議が開催され、国際連帯運動の継承が誓われた。この一連の動きがツィンマーヴァルト運動の端緒となった。
主要な国際会議
ツィンマーヴァルト運動の過程では、いくつかの重要な国際会議が開催された。
- ツィンマーヴァルト会議(1915年): 1915年9月5日から8日まで、スイスのツィンマーヴァルトで開催された。中立国および交戦国11か国から38名の代表が出席し、ロシアからレーニン、ジノヴィエフ、トロツキー、マルトフらが参加した。会議では「城内平和」に反対し、無併合・無賠償の講和を提唱する「ツィンマーヴァルト宣言」が採択された。また、レーニンら左派は「革命的祖国敗北主義」を主張したが大勢の支持を得るには至らず、のちに「ツィンマーヴァルト左派」を形成する契機となった。
- キーンタール会議(1916年): 1916年4月24日から29日にかけて第2回会議として開催され、40名余りが参加した。左派の参加者が増加して影響力を拡大したものの、第二インターナショナルとの決定的な訣別という方針は依然として多数派の支持を得られなかった。
- ストックホルム会議(1917年): 1917年9月5日から12日まで開催された。
運動の終焉
ツィンマーヴァルト運動は、レーニンを中心とするツィンマーヴァルト左派の発言力が強まる中で展開されたが、最終的には1919年3月に発足したコミンテルン(第三インターナショナル)に合流する形でその役割を終えた。
よくある質問
ツィンマーヴァルト運動とは何ですか?
第一次世界大戦の勃発に伴い第二インターナショナルの多数派が自国政府の戦争政策を支持して分裂した後、反戦を掲げる少数派社会主義者たちが国際連帯の継承を目指して1915年以降に展開した反戦運動です。
最初の会議はどこで開催されましたか?
1915年9月5日から8日にかけて、永世中立国スイスのツィンマーヴァルト村で開催されました。
ツィンマーヴァルト会議にはどのような人物が参加しましたか?
中立国および交戦国の11か国から38名が参加し、ロシアからはウラジーミル・レーニン、レフ・トロツキー、グリゴリー・ジノヴィエフ、ユーリー・マルトフらが参加しました。
ツィンマーヴァルト運動はどのように終結しましたか?
レーニンを中心とするツィンマーヴァルト左派が影響力を強める中、1919年3月に発足したコミンテルン(第三インターナショナル)に合流する形で解消されました。
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第一次世界大戦第二インターナショナルウラジーミル・レーニンコミンテルンレフ・トロツキー
参考文献
- 西川正雄『社会主義インターナショナルの群像 1914-1923』岩波書店、2007年。