日本の政治家

島津忠済

島津忠済
島津忠済(1855-1915)は、明治時代の華族であり、玉里島津家の第2代当主。貴族院公爵議員として活動したほか、アサガオの研究家としても知られる。

📌 主なポイント

  • 1855年、薩摩藩主島津久光の七男として生まれる。
  • 1888年に玉里島津家の家督を相続し、公爵を襲爵した。
  • 1890年から1915年まで貴族院公爵議員を務めた。
  • アサガオの研究家としても知られる。

島津 忠済(しまづ ただなり、1855年4月25日〈安政2年3月9日〉 - 1915年〈大正4年〉8月19日)は、明治時代の日本の華族。玉里島津家の第2代当主であり、位階・勲等は従一位勲一等に叙せられた。幼名は真之助、諱は久済、のちに忠済と改めた。

島津忠済の肖像
島津忠済

経歴

薩摩藩鹿児島城下(現在の鹿児島県鹿児島市)に、島津久光の七男として生まれた。母は側室の山崎武良子であり、島津忠義は異母兄にあたる。

1888年(明治21年)1月25日、父・久光の死去に伴い玉里島津家の家督を相続し、公爵を襲爵した。1890年(明治23年)2月、帝国議会の開設に伴い貴族院公爵議員に就任し、以後死去するまでその職にあった。また、宮内省の宗秩寮審議官や麝香間祗候などの要職を歴任した。

政治活動の傍ら、アサガオの研究家としても知られており、植物学の分野でも活動の記録が残されている。

栄典

忠済は華族として多くの叙位・叙勲を受けた。1884年(明治17年)に叙従五位となって以降、順次昇叙を重ね、1915年(大正4年)の死去時には従一位に叙せられた。勲等については、1914年(大正3年)に勲三等瑞宝章、没後の1915年8月19日に勲一等瑞宝章を授与されている。

家族

妻は竹内治則の次女である田鶴子。二人の間には、長男の島津忠承(貴族院議員)、次男の島津久大(外交官)をはじめとする子女をもうけた。また、娘の薫子は小松輝久に、量子は久邇邦久にそれぞれ嫁いでいる。

よくある質問

島津忠済は誰の息子ですか?
薩摩藩の有力者であった島津久光の七男です。
島津忠済の主な役職は何ですか?
貴族院公爵議員として長年活動したほか、宮内省の宗秩寮審議官や麝香間祗候を務めました。
島津忠済はどのような趣味を持っていましたか?
アサガオの研究家として知られており、植物の研究に熱心に取り組んでいました。

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参考文献

  • 『私の履歴書 第14集』日本経済新聞社。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月。
  • 『官報』各号(叙任及辞令、彙報・褒賞関連)。